いのちの終わりはいのちの始め

メッセージ

<ローマ人への手紙 6章1~13節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それはちょうどキリストが御父の栄光によって、死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

<ローマ人への手紙 6章4節>

メッセージ内容

<序論>  
・今日の箇所のテーマは、一言で言うと「キリストにある死といのち」ということだと思います。

<本論>
1、 キリストの死にあずかるバプテスマ

1節のみことばは、パウロがよく用いる表現法である、推論を仮定として述べるという形(仮定法)になっています。そして、それは、前章の20節で、次のように書いてあるからです。

『律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました』(ローマ5:20)。

つまり、罪の増し加わるところに恵みも満ちあふれるのであれば、私たちは大いに罪を犯そう。むしろ、罪の中にとどまっていたほうが良いのではないか、ということですね。しかし、パウロは、その後で、そのような仮定をはっきりと否定します。

『決してそんなことはありません(英Certainly not!)。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか』(同6:2)。

この『決してそんなことはありません』と訳されていることばは、この手紙に10回も出てきます。パウロは、「とんでもない!私たちの信仰の原点は、そんな損得勘定みたいなものではなくて、神の愛に対する私たちの真心からの応答であるべきだ。そして、そうであるならば、罪の中にとどまり続けるという、そんな不誠実な生き方をするはずがない」と言っているのです。

『それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。』(同6:3,4)。

私たちの教会の洗礼(バプテスマ)は、原則として、「浸礼(全身を水に沈める)」
という形で行っていますが、水に沈められるのは、罪の支配下にあった古い自分に死ぬということを象徴しています。パウロは、私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによってキリストとともに死んだ、それは、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのち、復活のいのちに生きるためである、と言っています。つまり、イエス・キリストにあっては、死といのちは不可分であり、罪に対して死ぬということがなければ、新しいいのちに歩むこともない、ということだと思います。

2、 キリストとともに生きる

『私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。』(同6:5~8)。

ここで、4節にある新しいいのちとは、復活(よみがえり)のいのちであることが、はっきりと言われています。ただ、初代教会の人たちでさえ、イエスさまの復活は信じていても、それが自分のいのちとどのような関係があるのか、イエスさまの復活が、自分のいのちとどのようにつながっているのかということについては、よくわかっていなかったみたいです。それは、同じパウロが書いた「Ⅰコリント」の次のみことばを読めばわかります。

『ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。』(Ⅰコリント15:12)。

天国に行って帰ってきた人がいないのと同じように、死んで復活したという人も、まだ誰もいないので、仕方がないと思いますが・・・。
ただ、少なくとも言えることは、私たちクリスチャンにとって、自分の死を考えること、死を見つめ続けることは、則ち、次の世界への希望につながっているということだと思います。死の世界の向こう側には、復活のキリストが共にいてくださる世界がある。神不在ではないという希望が私たちにはあって、そのことを私たちは信じているのです。
残念ながら、私たちの国は、この50~60年ほどで、死というものを、非日常化し、隠蔽し 偽装する社会になってしまいました。それは、自宅ではなくて、病院で亡くなる人が90%を超え、家族であっても、人の死というものに接する機会がない。また、アンチエイジングなどを目的とした、様々な健康食品、サプリメントが生み出され、多くの人が、いつまでも若く、美しく、健康に、という幻想に振り回されるようになり、老いや死に対してマイナスのイメージしか持つことができない。つまり、できるだけ死というものを考えないようにすると言いますか、死と向き合おうとしない時代、国に、私たちは生きているのです。
しかしながら、考えてみれば、死ぬということほど確実なことはありません。それは、誰にとっても100%確実なことです。また、誰に対しても平等です。そして、いつ訪れるのか、誰にも分かりません。イエスさまは、自分の畑が豊作で、多くの作物を倉にしまい、安心しきっているある金持ちのたとえの中で、次のように言われました。

『しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。』(ルカ12:20,21)。

死といのちとは神さまの領域であり、私たち人間には決定権はありません。自分の死と謙虚に向き合おうとしない人は、本当に豊かないのちを生きることはできない、ということではないでしょうか。

<結論>
最後に、本日の開会聖句を、もう一度ご覧ください。

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。』(ローマ6:4)。

「使徒の働き」を読めばわかりますが、弟子たちにとって、イエスさまの死は終わりではなく、新しい始まりとなりました。イエスさまのいないところで、それでも弟子たちは、イエスさまを宣べ伝えました。逆説的になるかもしれませんが、イエスさまが取り去られることで、弟子たちには新しい人生が開かれたのです。
ここに、いのちの「不思議さ」「神秘さ」のもう一つの面があります。私たちは、自分のいのちがどんな結果を、影響をもたらし、どんなふうに生き続けるかを知ることはできません。確かなことは、そこにはいつでも、新しい始まりが用意されているということです。そして、「いつでも新しい始まりが用意されている」ということを、聖書は「復活」というメッセージに託して伝えてきたのだと思います。「いのちの終わりは、いのちの始め」なのです。

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新聖歌

開会祈祷後:40番、メッセージ後:507番

聖書交読

詩編 56篇1~13節

2018年教会行事

9月19日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#50-2624

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