種蒔く人のたとえ

メッセージ

<マタイの福音書 13章1~9節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

私が植えて、アポロが水を注ぎました。
しかし、成長させたのは神です。

<コリント人への手紙第一 3章6節>

メッセージ内容

<序論>  
・「マタイの福音書」13章には、多くのたとえ話が出てきます。イエス様は、多くのことをたとえで話されました。それは、先週もお話ししたように、みことばが単なる教えとしてではなく、聞く人々の日常生活・日常の出来事と結びついて、より生活に根差したものとなるためであったと思います。
今日は、イエス様の数あるたとえの中でも有名な、「種蒔く人のたとえ」から、皆さんと一緒に見ていきたいと願っています。

<本論>
1、いのち

イエス様は、ガリラヤ湖に浮かぶ舟に乗って、岸辺を埋め尽くした大勢の群衆に向かって語り始められた。その情景は、ちょうど円形劇場の中心にある舞台(すり鉢の底のようなガリラヤ湖)から、客席(岸辺)に向かって語りかけるようなイメージではないでしょうか。当時は、もちろん、マイクなどはありません。しかし、そのような自然の舞台効果によって、イエス様の声は、遠くの大勢の群衆にまで、よく届いたのだと思います。そして、最初に語られたのが、「種蒔く人のたとえ」です。このたとえは、聖書では珍しいことですが、イエス様ご自身が、その意味を解説してくれています。

『ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』(マタイ13:18~23)。

ということで、このたとえの中に出てくる「種」とは「御国のことば」「みことば」のことであるということが分かります。ただ、「種蒔き」と言っても、当時のパレスチナと、今の日本とでは、かなり違っていたようです。当時のパレスチナでは、種を蒔く方法は二通りあったそうです。その一つは、人間が手で種をばらまくようにして蒔く方法です。以前の説教で「ルツ記」を取り上げた際に、「落穂ひろい」というミレーの有名な絵のことを話しました。今日の、「種蒔く人のたとえ」も同じく、ミレーが描いた有名な絵が残されています。それは、「種まく人」と題された絵です(山梨県立美術館とボストン美術館)。この絵は、「岩波書店」のシンボルマークにもなっていますが、帽子をかぶった一人の農夫が、脇に抱えた袋のようなものから種を取り出し、ばらまく姿が描かれています。そして、もう一つの方法は、もっと雑と言いますか、手のかからないやり方です。それは、種の入った袋に穴をあけ、それをロバに背負わせて、歩かせながら種を蒔くという方法です。そして、そのようにして種を蒔いてから、鍬を入れて土をかぶせたのだそうです。どちらも、かなり雑な方法です。ですから、当然のことながら、このたとえにあるように、種は色々な土地に落ちることになったんですね。ただ、ここでイエス様が問題とされているのは、種そのものではなくて、土地の状態と言いますか、種が蒔かれた土壌のほうであるように思えます。それは、その通りなんですが、私はまず、その大前提として、種、つまり聖書のみことばそのものにいのちがある、ということを、今朝、皆さんと共に覚えたいんです。確かに、聖書のみことばは、今から二千年前に書かれたものです。古典の中の古典と言ってもいいと思います。ですから、今の私たちには、直ぐに理解できないこともたくさんあります。当時の人々の暮らしや風習、文化なども、可能な限り調べた上で、解釈をしなければならないわけです。ただ、そのような聖書のみことばに、今の時代にも通じるいのちが宿っているんです。あの小さな種のどこにそんないのちが隠されているのか、と不思議に思うのと同じように。それが、今日の開会聖句にさせていただいた、『成長させたのは神です』というみことばが伝えてくれている、一つの大切なことだと思います。

By Jean-François Millet – Museum of Fine Arts, Boston, Public Domain,

2、あきらめないで

そして、もう一つ、大切なことがあります。それは、やっぱり、土地のことです。「良い地」でなければ、種は大きく育たない。ただ、この土地を私たち一人一人と考えて、私たちが生まれてから死ぬまで、ずっと「良い地」であり続けるということは、果たして可能なんでしょうか?その反対に、生まれてから死ぬまで、ずっと「道端」のような人、ずっと「土の薄い岩地」のような人というのも、果たしているのでしょうか?
「禍福は糾える縄の如し」という言葉があります。人生の浮き沈みの中で、どうしても、素直にみことばを受け入れられない、悟ることができない、という時もあるでしょう。すべてが順調で、上手くいっているように思える時、「俺には神なんか必要ない。神なんか、弱い人間の錯覚や」と思ってしまう時も、あるかもしれません。
「Ⅰテサロニケ」5章に、次のようなみことばがあります。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(Ⅰテサ5:16~18)。

以前に、お話ししたと思いますが、これは、1年365日、24時間ずっと喜んでいなさい、
ということなんでしょうか?それは、人間には、どう考えても不可能なことです。そんな無理なことを、神様は私たちに求めておられるのでしょうか?私も、長い間、表面的にしか、このみことばを受け止めてこなかったように思いますが、ある本を読んだ時、すごく納得できたんです。それは、このみことばが言っていることは、24時間ずっとということではなく、たとえそれがとぎれとぎれであったとしても、持続していくこと、持続しようとすることの大切さを教えてくれているということです。
そして、それは同時に、私たち人間の心は、いつも同じではなく、良い地になったり、道端になったり、茨にふさがれたり、そのようなことを繰り返すもんだ、ということも示していると思います。
私は、長年、保険の仕事をしてきましが、保険という商品は、今日のたとえの中の種、つまり、みことばと似ているところがあります。それは、保険を勧められた(種が蒔かれた)人の心の状態によって、大きく結果が違ってくるということです。保険というのは、人生でも大きな買い物の一つですが、家や車を買うのとは違います。まず、目には見えませんし、あってもなくても、日常生活に違いを感じるということもありませんし、直ぐに便利さや満足というものを実感できるような商品ではないんですね。ですから、いくら、「この保険はいい商品です。あなたにどうしても必要で、大切なものなんです」とお勧めしても、お客さんの心が眠っている状態、つまり「良い地」でなければ、結果は出ないんですね。しかし、そんなお客さんの心が「良い地」に変化する時があります。それは、例えば、東日本大震災のような大災害が起こった時とか、或いは、身近な人が急に亡くなったり病気になったりとか、様々な理由で「あー、やっぱり保険って入っとかなあかんな。」と実感した時です。ただ、そのような心の変化がいつ起きるのか、私たちには分からないことが多いです。ですから、優秀なセールスマン、セールスレディというのは、常に種蒔きを怠らない人であると言えます。すぐに芽が出なくて、今はそれが思うように育っていなくても、あきらめないで、期待して、種を蒔き続けるんです。まさに「継続は力なり」ということなんですが、これは本当に難しいことです。しかし、それが想像力と言うか、ビジョンを持って歩む人の姿だと思います。

<結論>
そして、今日の説教の最後に、私の証しのようになるかもしれませんが、一つのお話をして終わりたいと思います。
今、読売新聞の夕刊に、「ハレルヤ!西成」という記事が連載されています。その主人公は、西成の釜ヶ崎の近くにあるメダデ教会という教会の牧師で、西田好子という方です。彼女は、現在、68歳ですが、50歳の頃、小学校の先生を辞め、関西学院の神学部に入って牧師になりました。その歩みは、本当に強烈です。多くの路上生活者にかたっぱしから声をかけ、家族や世間から完全に見捨てられているような人たち(もちろん、それはそれなりの理由があってのことなんですが)と共に生きるという・・・。彼女の記事を読んで、私は、あきらめずに、種を蒔き続ける人の姿を思い浮かべました。色々な事情があって、中には、自業自得でそんな状態になった人たちもいると思いますが、そんな人でも、いつまでも「道端」や「土の薄い岩地」ではない。西田牧師は、何度、裏切られても、騙されても、あきらめないで、種を蒔き続けておられるんですね。そして、その中に、ある一人の「性同一性障害」の方の話もありました。男性なのに女性の姿をしておられる方です。その方は、現在も同じ姿で、メダデ教会の一員として歩んでおられるそうです。その記事を読んで、私は、前の教会で、同じような「性同一性障害」の方が来られた時のことを思い出しました。その時、私は、何時間か彼と話をしたんですが、最後に、彼は、「私のことを分かってくれない!」と言って、失望したように去って行かれたんですね。それは、もしかしたら、否、きっと、私の中に、西田牧師のような思いがない。あきらめずに種を蒔き続けるという思いがないということを、見透かされたのではないかと思わされました。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。』(Ⅰコリ3:6)。

成長させてくださる神様に期待して、種を蒔き続ける者でありたい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF111KB)

新聖歌

開会祈祷後:37番、
メッセージ後:40番

聖書交読

詩篇 118篇1~9節

2019年教会行事

2月20日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2647

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