なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 4章8~26節>
信徒:K
開会聖句
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。』イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」
<マタイの福音書 18章21〜22節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
小説を読み終わって、ドラマを見終わって、それからあの人はどうなったのと思うことありませんか。連続ドラマだと、明日はどうなるかというところで、話は終わります。でないと、次見てくれないからで、これは作戦です。私は聖書もそうだと思います。聖書がどうやってできたか、一方的に聞こえたものを書いたというイメージがありましたが、皆さんのイメージは昔と変わったと思います。神のことばが人間の手によって書かれたということは、伝える人間側の工夫がそこにあると思います。創世記1章は神の天地万物の創造でしたが、2章では人間にスポットが当てられていました。4章は、2章、3章、4 章の「人間」についての 3部構成の最後になります。2章で神にいのちを与えられ、エデンに連れてこられ、信頼関係を持つものに造られた人間が、3章で心の奥が露わにされ、信頼関係を損ない、エデンを追われる。そこでサヨウナラとならず、エデンの外で、それからどうなったのかというのが 4章です。そこに登場する「三つの家族のそれから」を通して、神の恵みを新たに発見していきたいと思います。
本論
I.カインのそれからー神の恵みによって、いのちを保護された
まず、最初は「カインのそれから」。前回を振り返りますと、神はカインのささげ物には目を留めず、弟アベルのには目を留められた。それで、カインはひどく腹を立てたのでしたね。なぜ、神がそうされたのかは、色々な説がありますが、書かれてないので、実際のところはわかりません。むしろ著者の関心はそこではなく、神とカインとの長い会話(6~15)にあるからでしょう。
その会話は、腹を立てたカインに、「罪が戸口で待っているが、あなたはそれを治めるだろう」という神の期待から始まりましたが、怒ったカインは彼を恋い慕う罪に身を任せて、アベルを誘い出して、殺しました。計画的な殺人。ここまでが前回でした。
今日は 9 節から。
「主はカインに言われた。『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。』カインは言った。『私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。』」
カインは質問にまともに向き合わず、自分は弟の番人じゃないとしらばっくれます。今までのカインはそんな兄ではなかったはず。
しかし、罪が兄弟の人間関係を破壊しました。以前、「罪ってなんですか」と質問すると、交わり(関係)の破壊だと教えられました。罪って、嘘、盗み、傷害、意地悪とかが頭に浮かぶのですが、それらは結果的に神のかたちであるその人自身を傷つけ、相手との人間関係、神との関係をも破壊していきます。だから罪とは交わりの破壊なのです。 神はすでにカインがアベルにしたこ
とをご存じで、カインにさばきを宣告されます。
10~12 節「・・・今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。・・・大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。」
これは農夫であるカインには致命的なことばです。父アダムへのさばきは額に汗して糧を得ることでしたが、カインは呪われ、アベルの血を受けた地はカインを受け入れない。彼はさすらい人となる。そのさばきを恐れた彼は、
13~14節「私の咎は大きすぎて、追い切れません.・・・」
大地の面から追い出され、神の御顔を避けてとは、神の恵みの届かないところ。そこをさまよう私は、見つかったら殺されるでしょうと恐れを伝えます。アベルへの謝罪はなく、殺人者は殺されることを恐れたのです。
神の返答はこうです。
15 節「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は 7 倍の復讐を受ける。・・・」
これは誇張表現で、そんなことはさせない。殺人者カインのいのちをなんとしても神が守ると言うのです。アメイジング!驚きでしょう。私の考えではついていけない。
古代イスラエルの律法、民数記35:19にも
「血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに殺してもよい。」
とあります。過失の場合は逃れの町に逃げられる制度。それなのに、神はカインのいのちはわたしが絶対守ると約束され、彼を見つけた人が、だれも彼を撃ち殺すことがないように、カインの額に一つのしるしをつけられました。神は時々、守ろうとする者にしるしをつけられます。過越のときのイスラエル人の家の門柱の血。クリスチャン(神の子)である聖霊のしるし。でもカインは律法では殺されても当然の故意の殺人者。この「それゆえ」ということばは、カインを考えられない神の恵みの世界に連れていくものでした。
「カインのそれから」は、神に見捨てられることなく、神の恵みによって、そのいのちを守られたのです。私はルカ 23:42の十字架にかけられた強盗を思い出します。彼はただ、イエスに「私を思い出してください」という一言で受け入れられたように、カインが反省したのかどうかではなく、神にその恐れをそのまま話したときに、神は彼を守ると約束された。私たちが何をしたとか
は関係なく、神に助けを求めるものを神は憐れんでくださるのです。
II.カインの子孫のそれからー神の恵みによって、それなりの繁栄が与えられた
2 つめの「カインの子孫のそれから」です。この後、カインは結婚するのですが、カインの嫁さんどこから来たの?と思われる方もいるでしょうが、謎です。地をさまよう者となった彼はノデに定着し、結婚し、町をつくり、その町に子どもの名エノクとつけます。彼はそれなりの幸せを得たようです。アベルの人生を奪ったカインがそれなりに人並みな人生を全うし、エノクに、イラ
デ、メフヤエル、メトシャエル、レメクと、その3人の息子の7代までが記されています。「それなりに」と言いましたが、「それなり」には意味があります。カインの家系にはある特徴があります。
レメクの3人の息子の職業は、家畜を飼うもの。-ここは町ですから、牧畜というより、運搬という商売ではなかったかと思われます。竪琴と笛を奏でるのは音楽家―芸術が生まれた。青銅と鉄を扱うのは鍛冶やー技術開発が進んだ。この町は人間の文明発祥の地と言われています。
カインという名前は「得た」「作り出す」という意味があります。力強い名前。その子孫もエネルギッシュな一族であったのでしょう。そんな人間のエネルギーから人間の文明が生まれました。
それが、神に喜ばれるものであったかどうかは、次のことから推測されます。19節「レメクは二人の妻を迎えた。」今までになかったことです。そして、23~24節のレメクのことばを要約しますと、彼は自分が受けた傷のために、一人の男(子ども)を殺すと言うのです。「カインに 7倍の復讐があるなら」という恵みのことばを使っていることから、これはカインの子孫に語り継がれていたのでは。しかし、その記憶も薄れ、6代目のレメクは殺人でなく傷害であっても、自分で77 倍返しをすると言う高ぶったことを言った人です。神に頼らず、自分で自分を守る。町がいくら繁栄しても、神を無視し自己主張の延長にある文明は、人を本当に幸せにするかは疑問です。
だから、「カインの子孫のそれから」は、それなりの幸せ、神の願いとは違った見せかけうわべの
幸せと言えるかもしれません。でも、子孫は絶えることなく増えたのですから、神の恵みによって、それなりの繁栄が与えられたと言っていいでしょう。
Ⅲ.セツの家族のそれからー神の恵みによって、主の名を呼ぶことを始めた
3つめはアダムの新しい家族「セツの子孫のそれから」です。エバは「神がアベルの代わりに別の子孫を授けてくださいました。」と言いました。アベル、カインとは違う別の子孫、セツの誕生です。セツの子はエノシュ。
26 節「・・・そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」
「主の名を呼ぶ」ということばは、次にアブラハムが生まれ故郷を離れ、神の示されるカナンの地に入って、2つめの祭壇を築いた場面にでてきます。創世記12:8
「彼はそこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。」
その次は30年以上経って21:33。イサク26:25で主の御名をよび求めました。そして新約ではローマ 10:13
「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。・・・」
に。パウロのことば。民族を超えて「主の御名を呼ぶ」人は広がり、私たちもその子孫です。セツの家族のそれからは、神の恵みによって、主の名を呼ぶことを始めたと言えるでしょう。
<おわりに>
今日、私たちが発見したのは、不安、苦しみの多い人間の現実につきあい、そこに注がれた神の大きな恵みでした。パウロはそれを「人知をはるかに超えたキリストの愛」(エ 3:19)と言い、私たちがその広さ、長さ、深さ、高さを理解することができるようにと祈りました。具体的には、今日の開会聖句マタイ18:21~22節
「・・・『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回許すべきでしょうか七回でしょうか。』・・・」
ではないでしょうか。それは無限の赦しです。私たちは、あの傲慢なレメクほどではなくても、それに近い性質を持っています。イエスを見ていたペテロは大きく譲って、七回の赦しを提案したのですが、イエスの答えはそれをはるかに超えていました。
私たちはそんな恵みによって救われ、神と共に生きるようにと召されています。私たちの役割は、その神の恵みを日々体験し、その幸いー良き知らせを伝えていくことだと思います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌40番、メッセージ後:新聖歌176番
聖書交読
詩編120篇 1~7節
2025年教会行事
4月30日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#57-2970