なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 6章1~8節>
信徒:K
開会聖句
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
<ヨハネの福音書 1章5節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
創世記を読み始めて、今日で13 回目です。非常にもたもたした感じですが、「はじめ」のことが多いので…。先月は系図の話で、やっと地上に人類が増えてきたところまできました。人間はエデンを追放され、死ぬものとなりましたが、神さまの祝福を受けて増えたんですね。ところが、それをぶち壊すような出来事がここから始まります。大洪水。 小学生の頃、算盤を習ってました。教室では先生が数字をこう読み上げます。「ご破算で願いましては、一円也、五円也…。」生徒は「ご破算」ということばを合図に、ソロバンに人差し指で線を引いて、珠をはじきます。リセットをします。 洪水物語は神さまがここまで造り、育んでこられた世界をリセットした話です。
とは言っても、最初からリセットを考えておられたか…?洪水の始まりは、神さまの心の痛みからでした。今日の箇所に「悪」と「悔いる」が2回繰り返されていますが、神さまは地上の様子をご覧になって、その悪に心を痛め、人を造ったことを後悔し、滅ぼすことを決心されます。今日考えたいのは、「滅ぼすことを決心させた悪ってどんなこと?」、もう一つは「神さまは悔いるの?」のです。そこから新しい気づきをし、私たちの生き方に生かすことができたらと思います。
I.悪とは神のみこころが行われない状態―暴力的な人間支配
1~8 節は全知全能の神さまが悔いるということで、よく問題とされるところですが、その前半も難解です。
1~4 節「さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て…。『人の齢は120 年にしよう。』…ネフィリムが地にいた。…」
人の娘を妻とした「神の子」って誰?その頃いた「ネフィリム」って何者?なんで急に寿命が「120 年」なの?わからないことが多いです。一番気になるのは「神の子」でしょう。諸説があります。「神の子ら」は人間か、天使のような天的存在か?聖書には両方の事例があるそうです。
「神の子」を天的存在とした場合。天的存在と人間の結婚ですが、イエスさまは天使は結婚しないと言ってたけど、いや天使にも色々種類あるかもとか考えられてきました。わからないことですが、この場合は倫理的秩序の破壊という罪になるとある本に書かれてました。 「神の子」を人間とした場合。5章はセツからノアの家系が書かれていて、4章には、もう一つ対照的なカインの家系のことが書かれてました。神を信じる家系と信じない家系。ここから、神の子らとはセツーノアの家系の人たち、人の娘とはカインの家系の人たちと考え、信者と未信者の結婚はよくないことを言ってるとされたことがありましたが、これもおかしい。でもそれほど、皆頭をひねって読むところということはわかります。この箇所は何を言いたいかというと、洪水というさばきにつながっていくのですから、人の悪がひどくなったことを説明するものと思います。
あとの2つの疑問もそれを支持する材料と考えられます。4節によると、神の子らと人の娘に子が生まれたその頃、ネフィリムがいたと書いてるのですが、新共同訳ですと、彼らに生まれたその子らがネフィリムだと書かれてます。ここも意見があいまいです。ネフィリムは民数記13:33 にも出てきますが、伝説上の存在で、巨人、強い人、権力を持つ者、支配する者を意味します。寿命については、それまでの長寿に制限がかけられたのは、この地上の様子と関係がありそうです。5~6節を読むと、この地上の様子が神さまがご覧になって、甚だ不愉快、非常に悪い、怒りを通り越してただ大きな絶望。11、13 節に地上の様子が「暴虐が満ちていた」と書かれていることから、権力者によって、暴力的な支配が地上に蔓延していたありさまと考えられるのです。
それで一体「神の子」とは誰かということに戻りますと、それは権力を持つ支配者と考えられます。1~2節の記述には、人口が増え、町が繁栄していった様子が伺えますが、ここの神の子らも人の娘たちも、カインの家系の人たちのことを指すと思われます。カインの家系の人たちは町を築き、新しい技術や職業を生み出し、繁栄します。それ自体は悪いことではありませんが、彼らは神を求めず、自分たちの富や権力により頼む人たちです。町が広がり、人口が増えると、そこに富や権力が集中し、レメクのような権力者が生まれてきたと考えられます。
この話は、世界が神さまの予想を超えて悪くなったことを表わしていますが、この「悪」とはどんなことなのでしょう。もちろん、アダムたち、カインの罪もありますし、セツの子孫が罪を犯さなかったとは思いません。「人の心がいつも悪に傾く」のですから。ただ、ここの悪とは、日常的な罪より、神は人を社会的な生き物(関係性を持つ者)として造り、互いが対等の尊敬しあう関係で生きるようにされたのに、支配、被支配という関係になり、権力者の暴力的な力(武力、経済力)によって弱い人たちが抑圧され、それが社会の仕組み、構造になってしまったことだと思います。神のみこころが行われない、暴力的な社会になったことが悪と考えられます。
II.神は悔いる方として、また悔いない方として表現される
タイトルにしました神さまが悔いることについて、どう思われますか。全知全能の教理と違うので、ちょっと不安だなあと感じつつ、概ね受け入れておられるのではないでしょうか。それは、今の私たちは人間に寄り添い、私たちの弱さや苦しみを理解しながらともに生きてくださる神さまの姿に馴染んでいるからです。でも、一昔前はそうではなかったと思います。
神さまが悔やむという場面が旧約で2 つだけありました。ここと、今月「残念な人たち」として紹介されたサウル王のところです。
「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(Ⅰサムエル15:11)。
神さまの命令に自己判断で従ったサウルを王位から退けることをサムエルに伝える場面ですが、面白いのは少し後の29節で、
「実に、イスラエルの栄光である方は偽ることもなく、悔やむことはない。この方は人間ではないので悔やむことはない。」
とサムエルが言ったことです。悔いた神さまのことを、サムエルはこの方は悔いることがない。人でなく神なんだからと言っているのです。私が考えるに、神さまの性質とか能力とかを言えば、神は全知全能偏在の方です。一方、そんな神さまが人間と関わっていくとき、それもいのちを育む愛の神として関わってくださるとき、色々な感情を持たれていることが多く描かれています。神は心配し、悲しみ、苦しまれます。それで思い出したのが、遠藤周作氏の「沈黙」という本です。
その本を知った頃、それは何やらいわくつきの本で、読んでいいのか悪いのか。結局映画で見ました。問題となったのは、そこに描かれる神さまの姿だったと思います。彼が描いたのは、彼が違和感を覚えていた完全で、権威があって、動じることのない強い父親のような神の姿で、はなく、弱く、女々しい弱い人間、拷問に屈した宣教師にとことん寄り添って受け入れてくださる神さまでした。彼はカトリック教徒でしたから、カトリック教会から、その神の姿に即座に批難の声があがりました。時間が経過し、その「弱い者の神」「同伴される神」という姿は受け入れられるようになりました。視点が変われば、神の姿も変わります。福音書が4つあるのもそうです。またその時代の流れというのも影響します。この本は再評価されるようになりました。
話を戻しますが、神は悔いない方ですが、ここでは神は悔いたのです。その悔いは人への深い愛のあらわれでした。神さまはさばきを決断し、地上の全ての生き物を滅ぼし、短い人類の歴史にピリオドを打とうと決心されました(7節)。そして8節をご覧ください。「しかし、ノアは主の心にかなっていた。」神さまの悔いて痛む心に浮かび上がったのは、ノアという人物でした。カインの家系ではなく、セツの家系がつないできた、主を呼ぶ人たちの子孫です。12章のアブラハムにつながる人物です。彼の存在が人類の歴史を左右することになります。
<おわりに>
今日の開会聖句は
ヨハネの福音書1:5「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
光はイエスさまのことで、この世の悪を滅ぼし、私たちをこの滅びの世から救いだしてくださいました。この6章の人間の悪、地上の悪という闇に輝いていたのはノアという光でした。悪とは暴力的な人間支配のことです。それは今もなお世界の現状です。大きな社会の構造でもありますが、私たちの身近な人間社会のありさまです。ノアの存在が、神のさばきという決断を、リセットという違った決断にしたように、私たち1人1人の存在も、神さまの目から見たら同じではないでしょうか。たった一人を通して、わたしの恵みのわざをあらわし、広げていこうという神の決断のための光。私たちがイエスさまに信頼し、日々生きることは大きな意味を持っていると思います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌27番、メッセージ後:新聖歌385番
聖書交読
詩編128篇 1~6節
2025年教会行事
6月25日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#57-2978