工事中断

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 11章1~9節>
信徒:K

開会聖句

その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

<エペソ人への手紙 1章9節後半~10節>

メッセージ内容

Youtube動画

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メッセージ原稿を公開しました。
 

はじめに 
今年の大きな出来事の1つは大阪万博だったでしょう。当初から懸念材料が多く、予定通りに大屋根リングは完成する?全部のパビリオンは完成する?安全は?など、心配されましたが、あの暑い夏もなんのその、大盛況に終わりました。リピーターも多く、人間の知恵と技術の結集した数々の展示物は、なかなか見応えがあったんだろうと思います。
今からはるか昔の人類の歴史の初めの頃にも、人間は一大プロジェクトを思い立ち、それを実行に移しました。自分たちの町と天に届く塔を、彼らの最新技術で建てようという計画でしたが、工事は神の介入によって中断し、人々は地の全面に散らされました。この話は、人間の傲慢に対する神の裁きと考えられ、私たちが科学や技術の発展を手放しで喜べない(万博すごいけど、でもね・・・)と思うなら、それはこの話が頭にあるからでしょう。今日は、このところから、人々が散らされた出来事と、それと正反対に、人々が1つに集められた出来事を話そうと思います。主題は、「散らされること 集められること」です。

本論

Ⅰ.人間は神の介入によって、地の全面に散らされた

11章は創世記の大きな区切りになります。原初史と族長物語。12章以降は、アブラハムとその子孫の話です。先月の10章では、広い観点からと、狭い観点からの話をしました。広いとはノアの3人の息子からすべての民族が広がった話、狭いとは息子の1人セムが選ばれ、救いの歴史が進む話でした。11章もその2つのことの続きとなりますが、今日は広い観点の話をします。1節「さて、全地は一つの話ことば、…」と始まってますね。10章では3人の息子たちは、「その氏族ごと、言語ごと」に地上に分かれていったとありましたから、この話は人類が別れて広がっていくはじめの頃のことです。

2節「人々が東の方へ移動したとき…そこに住んだ。」定住しようとしたのですね。きっと、彼らの目に叶ったのでしょう。平地で住みやすそう、移動しんどい、また町をつくると安全だし。そこで3節「さあ、れんがを作って…。」住居作りが始まります。日本なら資材は木材ですが、この辺り(メソポタミア)なら石とか土です。はじめは石を積み上げたり、泥を固めたりしたのだと思いますが、彼らの建築技術は進んでいて、レンガ(土と砂)を作り、天日干しから焼くという技術を発見しました。これで素材の強度が高まります。接着剤も漆喰から瀝青(天然のアスファルト)を使うこともできるようになりました。これらは革新的な技術の進歩でした。彼らも誇らしかったのでしょう。そしてこう言います。4節「さあ、われわれは自分たちのために…散らされるといけないから。」技術の進歩が悪いのではありません。問題は建設の動機「名をあげよう」「散らされないように」でした。自分たちは神と並ぶものであるという傲慢さ、自分たちのことは自分で守れる―神さまは要らないという自信が見えますね。そもそも、全地に広がり満ちていくことが神の祝福の計画であったはずです。

そして神さまの登場です。5節「そのとき主…降りて来られた。」「降りて」は、人間は自信満々に塔を建て始めたけど、それはあまりに小さくて見えなかったからだと言われますが、よく見るためだとも思いました。よ~くご覧になって、人間の能力に驚かれたのではないでしょうか。同時に、このまま人間を放置するなら、暴走するのではないかという危機感をもたれました。6節「…このようなことをし始めたのなら、…不可能なことはない。」神さまは人間の心が悪に傾くことは重々ご存知です。 箴言にはたくさんの知恵が詰まっていて、「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(14:12)ということばがあります。神さまを無視し、自分の力を頼みとして、自分の判断で生きることへの警告です。それで、神さまは人々のことばを混乱させ、互いの話しが通じないようにするという方法で介入されました。7節「さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ…。」「バベル」のヘブル語の語源は「混乱」という意味で、こうして、互いの話ことばの混乱から、人々は一緒に仕事をすることができなくなり、全地に散らされていきました。

バベルの話は、多くの言語の由来説明と、人間の傲慢に対する警告と、「地に満ちよ。」という祝福が神の介入によって続く話でもあります。1カ所で、1つの民として生きていきたいという人間の思惑に反して、神は人を全地に散らされました。

Ⅱ.人間は、キリストにあって1つに集められる

次はバベルとは対照的な、神が人間を1つに集められる話です。それは2千年前に起き、今も継続中です。それは使徒2章のペンテコステの出来事です。エルサレムのある家に集まって祈っていた弟子たちの上に聖霊が注がれました。まるで突風が吹いたかのような大きな音や響きを伴う現象で、町の人たちは何事かと驚き集まってきましたが、更に不思議な光景を目撃します。聖霊に満たされた弟子たちが、一斉に他国のことばで語りはじめていたのです。目撃者たちは呆気に取られました。使徒の働き2:7~11節「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに…いったいどうしたことか。…それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」ちょうど五旬節の祭りにエルサレムに来ていた外国生まれのユダヤ人たちが、ガリラヤ人たちの口から彼らの生まれた国のことばが飛び出したのに、びっくりしたのですね。

この話を聞くと、私はまず、聖霊に満たされた弟子たちが、全く知らない外国語を話したことに驚き、いいなあと羨ましく思います。英語の習得に四苦八苦し、それでも話せないという苦い経験を持つからです。しかし、この聖霊が降り注いだ日に起こった、素晴らしいことは、神のわざの話を聞いた人たちが、それを理解することができたことです。バベルの7節「通じないように」は「理解できないように」とも訳すことができます。 人間にとって必要な能力は、まず聞く力だと思います。ことばが違うことは大きな壁ですが、同じ日本語で話していても会話が通じないことは日常多々あります。心の耳が開かれてなければ、聞いても理解することはできません。このとき、聖霊の働きによって、他国で生まれたユダヤ人も、異邦人も、神のみわざを理解することができました。その後、聖霊に満たされたペテロの説教を聞いて、多くの人が心を打たれ、十字架で死なれたキリストを信じた人たちが集められ、エルサレム教会が生まれました。神さまが集められたのです。教会は「エクレシア」という召された者の集まりですから、この意味でこの神のわざは今も継続中なのです。

今日の開会聖句はエペソ1:9~10「その奥義とは・・・時が満ちて計画が実行され、天にあるものも地にあるものの、一切のものが、キリストにあって、集められることです。」これはパウロのことばです。彼は教会を迫害していましたが、イエスに出会って、目からうろこが落ちる体験をし、律法学者でしたから、よく知っていた聖書をさらに読み、この奥義に目が開かれました。人種でもなく、律法でもなく、身分でもなく、「キリストにあって集められるのがまことの神の民なのだ。」という大発見と興奮が彼を駆り立て、次々と教会を建てたのだと思います。エペソ人への手紙は特定の教会というより、教会とはこういうものだと教えるために書かれた、すべての教会への手紙です。それが新約聖書の一部になりました。パウロの殉教後、一番長生きしたヨハネは黙示録を書きました。最初に迫害下にある7つの教会を励まし、教会の将来、完成した神の国の様子を描いた箇所があります。ヨハネの黙示録7:9「…すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が…。」ヨハネが幻の中で見せられた、天上での礼拝の様子です。神さまは今も、キリストにあって1つの民を集めておられます。それが教会の大きな存在理由だと、私は思います。

終わりに

教会は神さまの働きの最前線ですが、時代によって変化を求められ、2千年前から続いてきました。これからもそうですが、神さまの働きなのですから、その導きに信頼していきましょう。今日からは、年末年始という特別な一週間ですが、私たちはいつものように、置かれた関係の中で、イエスさまの愛を人々に分かち合っていきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF150KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌22番、メッセージ後:新聖歌146番

聖書交読

箴言 3章 1~10節

2025年教会行事


今週の集会はお休みです。

#57-3005

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