なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ゼカリヤ書 9章1~10節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
<マタイの福音書 21章5節>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。
・「ゼカリヤ」からの二回目です。先週、お話ししたように、本書は9章から、その内容も文体も、それまでとは一変します。8章まではゼカリヤに与えられた啓示の正確な日付が記されていました。それは神殿再建工事の二か月後からその半ばまでで、年代で言うと紀元前520年から518年になります。しかし、今朝の9章以降については、それが果たしていつの時代のものなのか、はっきりしません。ただ、そこで描かれている状況から推測すると、それは恐らくペルシア帝国の末期から紀元前332年頃の、あのマケドニアのアレクサンドロス大王によるパレスチナ征服と、それ以降の世界情勢に当てはまるように思われます。これは前半の8章までの時代から200年ほど後の時代のことになります。ですので、学者の中には、本書の著者はゼカリヤ一人ではなかったのではないか?と、その統一性を疑問視する人もいるのですが、後半部分については、ずっと後になってゼカリヤに特別に啓示されたものだと考えることもできるでしょう。そして、この後半には、旧約の中でも特にメシア来臨についての預言が多く残されています。今朝の開会聖句も、マタイがその「ゼカリヤ」のみことばを引用して書いたものです。
<本論>
1.中間時代
9章冒頭の『宣告』ということばは少し後の12章にも出てきます。ですから、この9~11章までが一つの預言と考えることができます。「日々のみことば」の解説には、この『宣告』ということばには「挙げる」「運ぶ」「負う」という意味があり、様々な国、町に対して預言的に告知する意味で使われているとありました。確かに、この後の箇所には、当時のイスラエルを取り巻く都市国家の名前が出てきます。1節のハデラクはレバノンの北西、ハマテとアレッポの間にあったと思われる町で、アブラハムに示されたカナンの地の北端にあたります。また、ダマスコはアラムの首都、今のシリアの首都ダマスカスのことで、イスラエルに敵対する異邦人の国を象徴しているようです。この1節のみことばの後半部分は解釈が難しい箇所みたいで、「新改訳2017」では七十人訳聖書に従った訳に変更されました。以前の訳は「主の目は人に向けられ、イスラエルの全部族に向けられている」とし、「主の目」のところに星印があり、下に※七十人訳によるヘ「人の目は主に」と書かれていましたので、今回の改定で正反対の表現に変更されたわけです。そして、ハマテ、ツロ、シドン、アシュケロン、ガザ、等々。様々な都市国家の名前が続きますが、それらの国の人たちの目が主に向けられるとは、どういう意味か?それは、彼らが、あのイスラエルの民が神殿を再建したということを伝え聞いて、「次には、一体どんなことが起こるのだろう」と、恐れを抱いたということでしょう。そして、神殿の再建は、もちろんユダヤ人にとっても大きな転機となりました。ユダヤ人という呼び名自体、恐らく、この時代から始まったと考えられますし、旧約聖書にある多くの書簡が実際に編纂されたのも、この時代と考えられています。この後、旧約の時代が終わり、新約の時代が始まりますが、その間の400年ほどの期間を「中間時代」と呼んだりします。その間、神は何もせずに沈黙しておられたのかというと、そうではなくて、やはり歴史を動かしておられたのです。それも、ご自分の民イスラエルを用いてではなく、思わぬ人物を用いて。
2. 神の時
それが、初めに少しお話しした、あのアレクサンドロス大王でした。彼は、まさしく、彗星のごとく現れ、彗星のごとく去って行ったのですが、当時のオリエント世界の覇権を握っていたペルシア帝国を瞬く間に打ち破り、所謂「ヘレニズム」の世界を打ち立てます。「ヘレニズム」とは古代オリエントとギリシア文化が融合したギリシア風の文化のことですが、その中から、新約聖書にも多く引用された「七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)」が生まれました。この「ヘレニズム」は、政治的・軍事的には徐々に衰えてゆき、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された時点で終わりを迎えますが、その思想や文化、学術的な影響はずっと後の時代まで残り、ヨーロッパ文明の源流となったと言われています。新約聖書も当時のギリシア語で書かれたということは、皆さんもよくご存じかと思います。そのように考えますと、この空白のような「中間時代」も、まさしく神の時であったということを思わされますよね。イエス様は、
「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハ2:4、7:6)
とおっしゃいましたが、ある信仰書に次のように書かれていました。
「信仰は神の時を待つことである。「わたしの時はまだ来ていません」と言われるその方の時をじっと待つことである。その時が必ず到来することを確信して待つことである。この待つことを忘れたとき、私たちのいかなる行動も、それは信仰のわざとは言い得ない」。
3. 子ろばに乗って
そして、今朝の開会聖句ですが、これは、マタイが、イエス様のエルサレム入城を「ゼカリヤ」9章の預言の成就であると解釈し、その福音書に記したものです。このゼカリヤの預言の背景には、「Ⅰ列王」1章に書かれている出来事。あのダビデ王が亡くなる時、自分の後継者がソロモンであることを人々に示すために、祭司ツァドクと預言者ナタンを遣わし、ソロモンを雌ろばに乗せ、当時のエルサレム城壁の東にあったギホンの泉に下って行かせ、そこで油を注いて、「ソロモン王。万歳」と叫ばせたという故事があったと思われます。ですから、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、弟子たちはもちろん、多くの群衆も、同じような王の再来を期待し、熱狂して迎えたのです。「日々のみことば」今月号の著者は、このことについて、ろばということばはヘブル語で「アイル」。その動詞「ウール」には「目を覚ます」という意味と「盲目」という意味があるとし、イエス様がエルサレムに入城される前に、盲目の人の目が開かれるという奇跡があった一方で、イエス様を来るべきメシアであると受け入れることができず、霊的に盲目にされた者たちもいた、と述べておられました。私たちは、どうでしょうか?イエス様が子ろばに乗って入城されたのというは、旧約の預言の通りに進まれたということだと思いますが、そのお姿は、淡々と、と言うか、粛々と進まれたような印象を受けます。決して、弟子たちや、人々の誤解を解くとか、彼らの目を覚まさせるためにそのようにされたわけではない。むしろ、人々の誤解をそのまま受け止め、誤解の中こそが自分の進むべき道だと入城されたように思えます。それが、預言の通りに子ろばに乗って進まれたイエス様の真意であったように思うのです。
<結論>
私は、この時のイエス様のお姿を思い浮かべてみて、イエス様はどんなお気持ちだったんだろうなと考えてしまったんですが、私たち人間は皆、人に誤解されたくない。人から理解され。認めてもらいたいと願います。しかし、イエス様は、ご自分の救いの業をなさるにあたって、そのようにお求めにはなりませんでした。人間の側の誤解はそのままにして、むしろその中で、神からの預言の通り、ご自分の業をなされたのです。それをある方は「私たち人間のよくすることではなく、神さまの雰囲気の漂ったこと」と表現しておられました。私たちはよく自分の信仰の至らなさを嘆いて見せたりしますが、神はそんなことは先刻ご承知であり、私たちの信仰の力、祈りの力で、神の時が左右されることはなく、救いの業が成し遂げられるということもあり得ないのです。そう考えると、私たちの信仰というのは、どこまでいっても誤解でしかないというか、自分にとって都合の良いものでしかないような気もします。しかし、それと同時に、主は、それをそのままで引き受けてくださる方だと思うんですね。ですから、私たちは、それが救いなんだということを信じさえすれば、それでよいのでしょう。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌102番、メッセージ後:新聖歌252番
聖書交読
詩編137篇 1~9節
2025年教会行事
今週の集会はお休みです。
#57-2986