なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<使徒の働き 3章1~16節>
牧師:砂山 智
開会聖句
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
<エペソ人への手紙 2章8節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開をいましばらくお待ちください。
メッセージ原稿を公開しました。
・今日の礼拝後にE兄のバプテスマ式が行われます。昨日まで、隔週で土曜日に学びを続けてきましたが、その中で繰り返しお伝えしたことは、洗礼はゴールではなくスタートだということです。そして、皆さんもご存じのように、洗礼を受けたから救われる、救われているということではありません。「ローマ」に
『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです』(ロマ10:10)
とありますが、洗礼はイエス様を救い主と信じた人、救われた人が受けるもの(礼典)です。同じ主にある兄弟姉妹の前で自らの信仰を告白し、キリストとともに死に、キリストとともによみがえって、新しいいのちに歩む者とされたということを、目に見える形で明らかにする。それがバプテスマ式の大切な意義だと思います。この喜ばしい日に、私たちの信仰とはどのようなもので、私たちが救われるとはどういうことなのかを、皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。
<本論>
1.美しの門で
1節に、『ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った』
とありましたが、午後三時というのは、ユダヤ人にとって夕方の祈りといけにえを献げる時間とされていました。二人は、そのユダヤ人の伝統(習慣)に従って宮(エルサレム神殿)に上って行きました。すぐ前の2章には、聖霊が降って、弟子たちが聖霊に満たされたペンテコステの出来事が記されていますが、彼らの習慣と言うか、ライフスタイルは以前と変わっていなかったのです。少し後の
11章26節には『弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった』
と書かれていますが、そのように呼ばれるようになってからも、それまでのユダヤ教の律法から離れて、自由なキリスト者として歩むようになるまでには、何度も聖霊による導きが必要であったということは、本書を読めば分かります。それは、我々人間というのはそんなに簡単には変わらないということを示しているように思えます。
2節に「美しの門」というのが出てきます。学者の多くは、それは当時のエルサレム神殿の東側にあった「ニカルノ門」のことだったと考えているようです。その門の先にはユダヤ人男性だけが入れる庭があり、さらにその先は祭司の庭で、その奥に神殿(聖所・至聖所)がありました。ですから、そこは多くの人が行き来する場所だったわけですが、そこに、毎日、運ばれて来て、置いてもらっている人がいました。彼は生まれつき足が不自由で、歩くことのできない人でした。今であれば、車椅子や電動の車椅子で、ある程度は自由に動くことができますが、当時はそんなものはありません。彼は、誰かに物のように運んでもらい、物乞いをして生きてきたのです。聖書は彼の名前を記していませんが、少し後の4章22節に四十歳を過ぎていたとありますので、恐らく、小さな頃から何十年もの間、そのようにして生きてきたのでしょう。ですから、ペテロとヨハネが、
『私たちを見なさい』(使3:4)
と言った時、
『彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ』
というのは、それは日常のことと言うか、自然なことだったと思います。けれども、その後のことばはとても意外なものでした。
2.金銀は私にはない
『「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」』(使3:6)。
ペテロはそう言った後、彼の右手を取って立たせます。そうすると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり、踊り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。その姿は、もちろん、彼の喜びの大きさを物語っています。当時のユダヤでは、彼のように生まれながら障害のある人は、本人かその家族・先祖が罪を犯したせいだと考えられていました(ヨハネ9章)。ですから、彼は、長い間、障害者としての苦しみだけでなく、そのような差別や偏見の目で見られる苦しみも背負って生きて来たんですね。けれども、ペテロの発した、たった一言によって癒され、自分の足で立ち上がり、歩き始めた。それは、彼にとって、まさしく僥倖(思いがけない幸せ、偶然に得た幸運)であったと言えるでしょう。そんな彼が喜ぶ姿を見て、人々はものも言えないほど驚き、一斉に駆け寄って来ます。ペテロは、その人たちに向かって語り始めるのです。2章のペンテコステの説教に続く、宮での説教です。
3.罪人のままで
『「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか』(使3:12)。
福音書で描かれているペテロの姿から、このことばを想像することは難しいでしょう。彼は確かに情熱的で正直な人でしたが、その分、多くの失敗もしました。そのことは皆さんもよくご存じかと思います。極めつけは、すべての福音書が記録しているように、イエス様が捕まり、その様子を息をひそめながら窺っていた時、「お前もあのイエスの仲間だろう」と指摘され、「俺はそんな奴は知らない」と三度も否定したことです。「マルコ」には、
『するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った』(マル14:71)
と記されています。あのイスカリオテ・ユダもイエス様を裏切りました。ペテロとユダでは裏切った理由は違っていたかもしれませんが、イエス様を裏切ったという点では同じです。ただ、ユダは自分の罪を神に告白せずに自ら命を絶ってしまいましたが、ペテロは告白しました。しかし、それも考えてみれば、ペテロが自ら進んで告白したのではなく、復活されたイエス様がペテロの前に現れ、彼の罪を赦し、励ましてくださったから、できたことでした。
あの宗教改革を指導したルターは次のようなことばを残しています。
「(信仰義認の)義認とは、自分は罪深い、それが赦されていくのだ、そこに恵みがあるのだ。罪人が救われていくのであり、一生涯われわれは罪人である。ただその罪人のまま救われてゆくのだ」。
<結論>
『このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです』(使3:16)。
終わりに、ここでペテロが言う「信仰」について考えてみたいのですが、まず歩けるようになった人ですが、彼にイエスの名を信じる信仰があったかというと、どうでしょうか?とてもそうは思えないですよね。彼は何かもらえると期待して二人を見た。そして癒されたのですから。もちろん、癒された後は、イエス様を信じたとは思いますが、また、ペテロも、これは自分たちの力や敬虔さによるものではないと言っています。してみると、ここで言われている「信仰」とは、私たち人間の側の意思とか、熱心さとか、そういうものではないということが分かります。それは、同じ16節にあった「イエスによって与えられる信仰」です。信仰も神がイエス様によって(を通して)与えてくださる賜物(プレゼント)だということです。さっき「信仰義認」ということをお話ししましたが、私が今になってつくづく思うことは、私たちは余りにも人間の側の信仰ばかりを強調しすぎてきたというか、私の信仰の力でとか、あの人の祈りの力でとか、そんな風に信仰を考えてきたのではないかということなんです。しかし、大切なのは人間ではなく、義と認めてくださる、或いは、癒してくださる神であって、私の霊性とか、私が清くなる(聖化)と言っても、それは自らの信仰の力で清くなることではない。自分の犯してきた罪をイエス様の十字架によって清めていただくのであり、それが絶えずなされていくことだと思うのです。その意味で、やはり私たちは、一生涯、罪人であり、その罪人のままで救われてゆくのだと信じます。最後に今朝の開会聖句です。
『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です』(エペソ2:8)。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌42番、メッセージ後:新聖歌233番
聖書交読
詩編136篇 1~9節
2025年教会行事
8月27日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#57-2987