なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
第一部 クリスマス礼拝
メッセージ
<マタイの福音書 2章1~12節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
<ミカ書 5章2節>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・クリスマス、おめでとうございます!!今朝の開会聖句にさせていただいた「ミカ」の時代から約700年後、救い主イエス・キリストはその預言の通りにベツレヘム・エフラテにお生まれになりました。それは永遠の昔から定まっていたことでした。
1.ユダヤ人の王
ミカは神様のことばを伝える預言者でしたが、彼が残した預言の中で最もよく知られているのが今朝の5章2節のみことばでしょう。それは、メシア(救い主)誕生を告げ知らせる預言として、新約聖書の「マタイ」のクリスマス物語の中で引用されています。先程、読んでいただきましたが、皆さんもよくご存じの、東方の博士たちの物語です。東の方からやって来た博士たちがヘロデ王(大王)に次のように言います。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」(マタ2:2)。
この人たちは、ギリシア語本文では「マゴイ」と呼ばれ、ラテン語で「マギ」となり、伝統的に「博士」や「賢者」と訳されてきました。英語では「スリーキングス(三人の王たち)」と訳されているみたいですが、三人というのは、彼らが三つの贈り物を献げたことから推測されたもので、聖書には人数については何も書かれていません。また、王であったというのも、イエス様の誕生を、王たちがメシアに敬意を払うという旧約預言の成就として描きたかったということが背景にあったからだと考えられています。確かなことは、彼らが古代天文学の中心地であったバビロニア、ないしはペルシアから来た占星術師(星占い)で、はるか昔から、吉凶を占う天体観測を行っていた人たちであったということです。そんな彼らがやって来た目的は、「ユダヤ人の王」として生まれた方を礼拝するためでした。それはあくまでも「ユダヤ人の王」ですから、自分たちの王ではなかった。彼らは、言わば、よその国の王に会いにやって来たわけです。考えてみれば、それも不思議なことなんですが、彼らはとにかく星占いで吉とされるような人物がユダヤの国で生まれると知って、それならば、ぜひ伏し拝んで、少しでもそのご利益に与りたいと考え、やって来たのでしょう。
2.別の道から
それで、ヘロデ王は祭司長たちに問いただします。キリスト(メシア)はどこで生まれるのかと。興味深いのは、ヘロデは「ユダヤ人の王は」とは聞きませんでした。なぜなら自分こそがユダヤ人の王でしたから、自分の地位を脅かすような人物の誕生を認めたくなかったのでしょう。そんなヘロデに祭司長たちは答えます。
『彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」』(マタ2:5~6)
この引用には「ミカ」と少し違うところがあります。それは「あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない」という箇所です。これは、ベツレヘムは小さな町ではあるけれども、そこでメシアが誕生するのだから、決して小さな意味しか持たない町ではない、ということでしょう。ただ、祭司長たちは「ミカ」の預言を知っており、メシアが生まれる場所も知っていたのですが、その時は知りませんでした。否、今朝の祭司長たちに限らず、時を知るということは、どんな人にとっても難しいことです。昔、保険の仕事をしていた頃、お客様に説明する際に「万一の時」ということばをよく使いました。私たちには「万一の時」がいつ来るのかは分かりません。だから「万一の時」なんですが、自分が何歳まで生きるのか、或いは大地震がいつ来るのか、確かなことは誰にも分からないのです。だから保険や年金に加入するわけですが、そんな不確かなことで損得を考えること自体、ナンセンスだと言えます。少し脱線してしまいましたが、私たち人間は、普通、時を知ることは不可能です。だから、今が大切だということになるんですが、今朝の物語では、不思議な神のご摂理によって、博士たちはその時を知ることができました。そして、彼らにその時を知らせてくれた星は、その場所まで彼らを導いてくれたのです。彼らはこの上もなく喜び、はるばる携えて来た宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げ、幼子を礼拝することができました。ただ、その後、夢でヘロデのところに戻らないようにと警告されたので、別の道から帰って行ったとマタイは記しています。この別の道からとは、来た時とは違う道からということですが、ただそれは、単に地理的に違う道で帰ったというだけではないように思えます。それは、彼らが来る時とは全く違う人間とされて帰って行ったことを強調しているように思えました。すなわち、彼らが幼子イエスを「ユダヤ人の王(よその国の王)」としてではなく、「私の王」と信じ受け入れて帰って行ったということです。日本人の多くは、少なくともイエス・キリストに対しては、悪い印象を持っていないかもしれません。特にこのクリスマスの時期には。クリスチャンでなくても、ケーキや色々なご馳走を並べて「メリークリスマス!」と言ってお祝いをしますから。しかしそれは、「私の王、私の神」として、イエス様の誕生をお祝いしているのではなく、自分とは余り関係のない「ユダヤ人の王(よその国の王)」の誕生をお祝いしているんですね。けれども、イエス様は決して、私たちにとって「よその国の王(神)」としてお生まれになった方ではないのです。また、遠い昔の歴史上の偉人のような方でもありません。あの2000年前のユダヤのベツレヘムの小さな家畜小屋でお生まれになった救い主は、今の私たち、ご自分を信じる者たちに、新しいいのちを与え、神の子どもとして生きる道を示すために生まれてくださったのです。
<結論>
ですから、イエス様は、「私の王、私の神」であり、それだけでなく、「すべての人の王、すべての人の神」でもあるのです。私たちはそう信じています。「ヨハネ」1章9~13節にそのことが証言されていますので、最後にそのみことばを読ませていただき、クリスマスのメッセージを閉じたいと思います。
『すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民をこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである』(ヨハ1:9~13)。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌79番、メッセージ後:新聖歌80番
特別讃美
有田仁一兄・玉崎彰兄
「ひれ伏しあがめる」作詞作曲 : 長沢紘宣
「箴言3:6」作曲 : 吉田めぐみ
「イエスが愛したように」作詞作曲 : 長沢崇史
「向日葵」作詞作曲 : 長沢崇史
「私の生きる理由」作詞作曲 : 中畑友里
「誰も見たことのないことが」作詞作曲 : 長沢崇史
「はじめに言葉があって」作詞作曲 : 小松顕
※クリスマス礼拝後は、サンドイッチの軽食による昼食タイムを持ちます。昼食タイム後に第二部の燭火礼拝を行います。
お時間のある方はどうぞご参加ください。
第二部 燭火礼拝
奏楽:砂山 智恵 姉
2025年教会行事
12月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#57-3003