ことばは人となって

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ミカ書 6章1~8節>
牧師:砂山 智

開会聖句

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。

<イザヤ書 57章15節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・先週はクリスマス礼拝で、「ミカ」5章2節のメシア預言からの引用が出て来る「マタイ」2章の東方の博士たちの物語からお話しさせてもらいました。日本では、25日の夜にはクリスマスに関するものはすべて片づけられ、翌26日からは迎春一色になりますが、欧米では「ホーリースリーキングスデー(公現祭)」という祝祭が翌年の1月6日に行われ、それまではクリスマス気分を味わえるみたいです。今年は先週がクリスマス礼拝でしたので、もうクリスマスは終わったような、今朝は少しそんな気分ですが、実際は、まだ21日です。特に、今朝はムジカの素晴らしい特別讃美もありましたので、今年のクリスマスは、むしろ「一粒で二度おいしい」という感じになったかなと思っています。本当に感謝します。
今朝は「ことばは人となって」というタイトルで、皆さんとともに、みことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1.数えてみよ主の恵み

「ミカ」のミカは、今朝の開会聖句のイザヤとほぼ同時代に活躍した預言者です。ただ、イザヤが王族出身であったのとは対照的に、ミカは、所謂、庶民の出でした。1章1節を見ると、彼はモレシェテ人と呼ばれていますが、このモレシェテとは、少し後の14節に出て来る、エルサレム南西約30キロの所にあったモレシェテ・ガテのことだと考えられています。だとすると、彼はペリシテ国境近くにあったユダの田舎町の出身で、恐らく農業や牧羊を生業としていた人であったと思われます。ただ、イザヤとは、その預言の内容がよく似ていることから、相互に何らかの関係を持っていたと考えられています。イザヤが、当時の支配階級、特に政治的指導者に対して預言し、外交的問題に大きな影響を与えたのに対して、ミカは、庶民の目線から、国の内政の腐敗や偽善的な宗教生活について、民衆に対して預言した人でした。ということで、本書の最後の6章、7章でも、イスラエルの罪が厳しく指摘され、断罪されています。今朝の6章の1節と2節は、ミカからイスラエルの民への語りかけで、3~5節は、神から民への語りかけになっています。「」で括られている箇所がそうですが、最初の3節のみことばは、何か人間臭いというか、ユニークな表現ですね。そこで神が語られたのは、「あの出エジプトの出来事、荒野を彷徨った昔に、わたしがあなたがたに施した恵み、慈しみを思い起こせ」ということでした。もうすぐ今年も終わりますが、先週のメッセージで、私たち人間には時を知ることは難しいということをお話ししました。先のことどころか、明日のことさえ、私たちには分かりません。だから、イエス様があの山上の垂訓で言われたように、今を、今日一日を大切に、ということになるのですが、その大切な今日を元気に生きるための秘訣の一つは、過去の恵みの数々を思い起こすことではないでしょうか。「日々のみことば」の執筆者の方は、そのために私たちの霊的な目が開かれるように祈りましょう、と書いておられました。本当にそうですね。最近、年を取ったせいか、体調がすぐれない日が多くなりましたが、「数えてみよ主の恵み」という聖歌のように、主の恵みを数えつつ歩む者でありたいと切に願います。

2.ただ公正を行い

そして、その後の6~8節では、私たち人間が神に受け入れられるためにはどうしたらよいのかという質問が投げ掛けられ、その質問に対する答えが語られます。特に、最後の8節のみことばについて、ある本に、

「このことばは、旧約聖書中、最も明確に宗教(信仰)の本質を摘記した偉大なことばと言われている」

と説明されていました。ミカは、6~7節で、当時、行われていたイスラエルの宗教儀式が、その命を失い、空疎化していると指摘します。そして8節で「主はあなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い」と民に語り掛けます。この「公正」ということばは「正義」、或いは「公義」とも訳されています。それは、自分の好みや、その時代に流行っている思想などに従って行動するのではなく、神の判断、価値観に従って行動することを意味します。自分が子どもの頃、若かった頃と、今の世の中の価値観や考え方も、ずいぶんと変わってきたなぁということを思わされるのですが、ここで言われていることは、どんな時代であっても、世の中がどう変わっても、神を第一とし、神との関係、神への愛に真実に生きなさい、ということです。そして、もう一つ、このみことばが教えてくれている大切なことは、宗教には様々な儀式や戒律(律法)がありますが、それらのものに精神・心が伴わなくなってしまった時、信仰はその命を失ってしまうということです。そして、信仰がその命を失い、形だけのものとなってしまった時、それは人を縛り付け、苦しめるだけの重荷となります。それを「律法主義」と呼びます。律法自体は悪いものではないと聖書は言っていますが、本末転倒と言うか、儀式もそうですが、それ自体が目的となってしまった時、形骸化が始まり、私たちの信仰は死んだものとなってしまうのです。大切なことは、イエス様が言われたように、

「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」(マル2:27b)

ということだと思います。

<結論>
今朝の開会聖句はミカと同時代に活躍したイザヤの預言ですが、私たちの信仰の生命線は、私の信仰がどうだとか、私がどれだけ熱心に信じているかということにあるのではなく、神がこの私にどのようにしてくださったかということに、どこまでも目を注いでゆくことにあると思います。へりくだった人、砕かれた人とは、そういう人のことであり、そういう人は、過去の恵みに感謝し、自分の思い煩いの一切を神に委ねることができる人なのでしょう。クリスマスは、そのことを、私たちがもう一度、思い起こす時なのです。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた』(ヨハ1:14)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF95KB)

特別讃美

ムジカンパーニュ
「さやかに星はきらめき」前奏

「入れまつる家あらず」
「昔ユダのベツレヘムに」
「神の子羊」
「パラダイス」

新聖歌

メッセージ後:新聖歌99番

2025年教会行事

12月24日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#57-300④

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