つとめいそしめ

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 1章1~5節>
牧師:砂山 智

開会聖句

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」

<創世記 3章19節>

メッセージ内容

Youtube動画

 メッセージ動画公開:1/16 AM 0:26
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・「創世記」からの2回目です。今、私たちの教会では、K姉が「創世記」から説教をしてくださっていますが、ちょうど1年程前に、今朝の箇所から、「心に潜む思い」というタイトルで話してくださいました。今朝は、その時とはまた別の視点から、働くということについて、皆さんとともに考えてみたいと思っています。

<本論>
1.働くことはむなしい

昨年の新語・流行語大賞に選ばれたのは、高市総理が自民党総裁選で勝利した時に発したことばでした。「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります!」実際に繰り返した回数と合っているかどうか分かりませんが、悲願がかなって自民党総裁に選ばれたということで、嬉しさのあまり肩に力が入り、思わず口走ってしまったということだったのではないかと思いますが、賛否両論、一部からはひんしゅくも買いました。まるで「過労死」を肯定するかのような発言だと。「よきおとずれ」今月号の巻頭言に岩村先生が書いておられましたが、今から40年ほど前に、ある栄養ドリンクのコマーシャルソングが、やはりその年の流行語になりました。「黄色と黒は勇気のしるし!24時間戦えますか!ビジネスマーン!ビジネスマーン!ジャパニーズビジネスマーン!」という…。人間にそんなことは無理なんですが、当時は、そんな時代だったんですね。ただ、今と比べると、スマホやパソコンなんかありませんし、何でも管理、管理、管理という息苦しい時代でもなかったので、サラリーマンならぬ「サボリーマン」も、結構、いたような気がします。また、社会全体が右肩上がりの時代でしたから、むしろ働く環境としては、今の方がずっと厳しいというか、閉塞感が強いのかもしれません。

今朝の開会聖句は、あのアダムとエバがエデンの園で罪を犯し、園を追放された時に神から下された罰(さばき)、と一般的には解釈されています。このみことばでいつも思い出すことがあります。それは、働き出して2年目か3年目の、特別、何ということもないありふれた平日の朝のことでしたが、出勤途中で、不意に私の頭にある思いが浮かんできたんです。それは、「俺は、あと何年、働かなあかんねやろ?」という。当時、東京で、毎日、押しくら饅頭みたいな満員電車に揺られ、仕事では営業の数字(ノルマ)に追いまくられ、終電で独身寮に帰るような生活を送っていましたので、そんな風に思ったのかもしれません。特別に何かあったわけでもなかったのですが、本当に不思議なことに、その時のことははっりと記憶に残っています。もちろん、楽しいことも色々とありましたし、今となっては良い思い出でもあるんですが、のほほんと過ごせた学生時代とは全く違う社会の厳しさ、働くことの厳しさというものを実感しつつあったのかなぁ、と今になって思います。「詩篇」には、次のような詩人のことばがあります。

『あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい』(詩127:2a)。

また、「伝道者」の1章3節にも次のように書かれています。

『日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか』(伝1:3)。

2.それでも働くことの意味

どちらもネガティブなことばで、なにか落ち込んでしまいそうになりますが、ただ、それはあくまでも、聖書が、働くことについて示している一つの側面であって、誠にその通りではありますけれども、もちろん、それが働くことのすべてではありません。今、ご紹介した「詩篇」127篇も、その部分だけでなく、全体を読むと、また違った印象を受けます。先程の2節の後半には、

『実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる』(詩127:2b)

とあります。
様々に解釈できるかもしれませんが、私は、なにか一日、一所懸命に働いて、身も心もくたくたになって家に帰って来て、ゆっくり風呂にでも浸かった後、布団の中で心地よい眠りに落ちて行く姿が浮かんできました。それは、働くことの素朴な喜び、充足感というか、顔に汗を流して働くことは神からの恵みでもあるということです。そのように、聖書には、どんな仕事・職業であっても、それを神からの召し(英Calling、独Beruf)と受け止め、神の栄光を現すために誠実に働くように。そして、それこそが働くことの意味であり、私たちの喜びにつながることであるということが、随所に書かれています。色々ありますが、例えば、新約聖書の「ロマ」12章1節。

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です』(ロマ12:1)。

私たちが働くのには、もちろん、生きるため、生活の糧を得るためという側面があるわけですが、このみことばは、それだけでなく、もっと広い意味で、働くことの根源的な意味を教えてくれているような気がします。そして、続く2節には、

『この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります』(同12:2)。

先週、聖書のみことば人を変革するとお話ししましたが、今もありましたように、願わくは、私たちが、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることできますように。そして、実際に社会で働くか、働かないかは別にしても、私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げるということは、結局、私たちの目が、視線が、どこを向いているのかということなのでしょう。

<結論>

今朝の説教題は、私が中学・高校の頃、学校の礼拝の時間によく歌った讃美歌のタイトルです。「つとめいそしめ 花の上の きらめく露の 消えぬ間に 時過ぎやすく 暮れは近し 朝日照る間に いそしめよ」。聖歌にも、「せいだしいそしめ(321番)」というタイトルで同じメロディーの曲がありますが、残念ながらどちらも「新聖歌」には採用されなかったみたいです。この曲は1854年に作られ、作者は、当時、僅か18歳であったアニー・ルイズ・ウォーカーというカナダ人の少女で、その歌詞の内容は新約聖書の「ヨハネ」9章4節のイエス様のみことばが元になっています。

『わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます』(ヨハ9:4)。

古から、色々な哲学者や作家が、仕事が持つ本質的な価値について多くの深遠な言葉を残しています。しかし、この讃美歌ほど、私たちが神と共に働くことの価値、素晴らしさについて、簡潔かつ有意義に述べたものは他に無いでしょう。そして、先程のイエス様の「だれも働くことができない夜が来ます」ということばには、終末におけるご自身の再臨と、いずれ誰にでも訪れる死という、二重の意味が込められているのでは、と思わされました。あの三浦綾子さんは、その最晩年に、体が衰え、もう小説が書けなくなってからも、「自分には死ぬという大切な仕事が残っている」と言っておられたそうです。自分も、最後まで、そのように言って死んでいけたらなぁ、と願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF110KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌404番、メッセージ後:新聖歌428番

聖書交読

箴言17章 1~15節

2025年教会行事

1月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#57-3007

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