私の誇りとするもの

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<歴代誌Ⅰ 1章1~28節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

<ガラテア人への手紙 6章14節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
動画公開をいましばらくお待ちください。

 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・先週はK姉が「みゃくみゃくと」というタイトルで、「創世記」5章の系図から話してくださいました。聖書にある系図の特徴、系図の役割、そして、千里教会誕生の経緯。とても興味深く読ませていただきましたが、今朝のテキストである「Ⅰ歴代」の1章から9章も、そのほとんどが系図です!これらの系図には、他の旧約の書簡からの引用と思われる箇所もいくつかあります。例えば、1~4節のアダムからノアの子どもまでの系図は、「創世」5章3~32節からの引用で、5~7節のヤフェテの子孫の系図は、やはり「創世」10章の2~4節からの引用、等々。そのことと関連して、「日々のみことば」今月号の最初のアドバイスには次のように解説されていました。

「歴代誌が記された当時、すでにイスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、神殿を再建していました。ところが、預言者たちが語ったメシア王国はいまだに到来していませんでした。そこで、イスラエルの民の信仰を励ますために、歴代誌が記録されました。Ⅰ歴代誌には、アダムから当時までのイスラエルの民の系図と、神に熱心に仕えたダビデ王の治世とが記されています。神による創造と選びこそ、イスラエルの民の起源であり、また、ダビデによる統治は、ユダの歴代の王たちが倣うべき模範であっただけでなく、メシアを王とする神の国のひな型でもあるからです。」

<本論>
1.ユダヤ人のアイデンティティ

それにしても、今朝の箇所をずっと読んでいると、なんだか眠くなってくるような…というのは私だけでしょうか?そのほとんどが聞いたこともないような名前の羅列が延々と続きます。ユダヤ人というのは本当に系図が好きなんだなぁ、と改めて思わされるのですが、私も、そして皆さんもそうかもしれませんが、やっぱり自分のルーツには興味というか、関心がありますよね。自分のご先祖様というのはどんな人で、どんな人生を送ったのか?実は、これは今まであまりお話ししたことはないのですが、私のルーツは四分の一が分からないんです。父方の祖父が、どこのどんな人だったかということが、まるっきり分からないんですね。私は、そのことを、40歳を過ぎてから、母から初めて聞かされて知りました。父は最後までそのことについては一言も話しませんでしたし、私も聞けなかったです。もう知ることはないでしょうが、やっぱり知りたいなぁという思いはありますね。自分の本当のじいさんが、どこのどんな人で、どんな人生を送ったのかということを。以前にテレビで、熊本の慈恵病院にある「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」に預けられた、ある青年のことが紹介されていました。その方は愛情深い養父母にもらわれて、とても大切に育てられたのですが、やっぱり実の親のことを知りたいと思って自分なりに色々と調べてみた。そんな話を聞くと、本当に何とも言えない気持になりますが、そういう人間的な思いは別としても、ユダヤ人にとって、系図というのは、最初に申し上げましたように、何よりも大切なものだったんです。それは、自分が神に選ばれた民の末裔であるということを証しする、自らのアイデンティティ(存在証明)そのものであったということだと思います。

2. 生かされている存在として

そんなことを考えていて、昔、テレビの時代劇で観た一場面を思い出しました。元は武士であったという家で、母親が息子に向かって「あなたは武士の子どもなのです」と諭す場面です。そのことばには、「今は落ちぶれて、惨めな暮らしをしているかもしれないけれども、あなたは誇り高い侍の末裔なのですよ。ですから、その誇りを忘れてはなりません。侍の子らしく生きるのです」という思いが込められていたわけですが、今朝の系図も、当時のユダヤ人への同じような思いが込められていたのでしょう。そして、そのような誇り(プライド)は、確かに、目の前の逆境を乗り越えるための原動力になり得ますが、時に、それがおかしな信念というか、思想と結びついてしまうこともあります。それは、偏狭な民族主義や人種差別のようなものです。ユダヤ人がユダヤ人に生まれたのも、また、今、お話しした侍の子が侍の子に生まれついたのも、それは言わば運命であり、私たちのことばで言えば、神のみこころによるものですよね。聖書が言っていることは、私たちは、ただ、そのように生まれ、そのようにというのは、神のかたちに創造され、神からいのちの息を吹き込まれて生きた者となったということです。ですから、私たちは、どこまでいっても、生かされている存在だと言えるでしょう。そんな私たちが、他の人を、他の国や民族を見下したり、まして自分を神の側において正義の名の下に彼らを裁くようなことは、決してあってはならないことです。福音書を読んでいると、イエス様の時代のユダヤ人、特にパリサイ人や律法学者などの指導者たちの選民意識に驚かされることがありますが、それは決して昔の話ではなく、今の世界、今の私たちにも関係があるのです。
少し前に、NHKの「映像の世紀・バタフライエフェクト」という番組で、「“神の国”アメリカもうひとつの顔」と題して、アメリカの、所謂「福音派」と呼ばれる人たちのことが取り上げられていました。その時代、1960~70年代は、特に共産主義が盛んな時代でしたので、それに対抗するためということもあったみたいですが、福音派と呼ばれるクリスチャンの中に、人種や肌の色、思想や信条で人間を差別し、その人たちの神のかたちとしての尊厳を否定する人がいたのです。ただ、それと同時に、その時代と重なる1974年には「ローザンヌ世界伝道国際会議」が開催され、次のような誓約が採択されたということも歴史的な事実としてご紹介しておきます。ちなみに、このローザンヌ会議を招集したのは福音派の著名な伝道者であったビリー・グラハムでした。以下は「キリスト者の社会的責任」からの抜粋です。

「人間は神の像に似せて造られているので、一人一人は、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものであり、それゆえに、人は互いに利己的に利用し合うのでなく、尊敬し合い、仕え合うべきである。私たちは、これらの点をなおざりにしたり、時には伝道と社会的責任とを互いに相容れないものとみなしてきたことに対し、ざんげの意を表明する。たしかに人間同志の和解即神との和解ではない。社会的行動即伝道ではない。政治的解放即救いではない。しかしながら、私たちは、伝道と社会的政治的参与の両方が、ともに私たちキリスト者のつとめであることを確認する。なぜなら、それらはともに、私たちの神観、人間観、隣人愛の教理、イエス・キリストヘの従順から発する当然の表現にほかならないからである。救いの使信は、同時に、あらゆる形の疎外と抑圧と差別を断罪する審きの使信でもある。私たちは、罪と不義の存在するところでは、いずこにおいても、勇断をもってそれらを告発しなければならない。」

この誓約の最後は、「行いのない信仰は死んだものである」という「ヤコブ」のみことばで結ばれています。ただし、私たちには、真っ白な人(善人)もいなければ、真っ黒な人(悪人)もいません。その濃淡に違いはあっても、皆が灰色です。そのことを踏まえた上で、この誓約を受け止めたいですね。

<結論>

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました』(ガラテヤ6:14)。

パウロは、このすぐ後で、

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です』(同6:15)

と述べています。イエス様が十字架で死んでくださり、隔ての壁を打ち壊してくださった今は、もはやユダヤ人としての誇りは全く意味をなさないということですね。私たちはユダヤ人ではありませんし、日本人であることを誇って他の人たちを見下すこともないかもしれません。しかし、それでも十字架以外の何かを誇りとしていないだろうか?そう思ってしまいます。それは例えば、自らの信仰の熱心さであったり、自らの信仰的な立場だけが正しいとすることとか。私たちには、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはならないのです。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF112KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌117番、メッセージ後:新聖歌383番

聖書交読

詩編125篇 1~5節

2025年教会行事


6月4日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2975

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