なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨハネの福音書 1章43~51節>
牧師:砂山 智
開会聖句
しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。
<ローマ人への手紙 9章6節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ヨハネ」には、共観福音書と呼ばれる他の三つの福音書にはない独自の記事が多くありますが、今朝の箇所もその一つです。
1.神の子羊
本福音書の冒頭、1章18節までの序言はとても印象的です。そして、その序言に続いて記されているのはバプテスマのヨハネの証しです。バプテスマのヨハネはイエス様を指して次のように呼びました。
『その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」』(ヨハ1:29)。
少し後の36節を見ると、ヨハネは、その翌日にも、同じように呼んでいます。
『その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った』(同1:35~36)。
ちなみに、この時、ともにいた二人の弟子とは、一人は40節にあるように、シモン・ペテロの兄弟アンデレで、もう一人は、この福音書の著者であるゼベダイの子ヨハネと思われます。つまり、この二人は、元々、バプテスマのヨハネの弟子であったわけです。この事実も、四つの福音書の中で「ヨハネ」だけが記していることです。
さて、この29節と36節は、バプテスマのヨハネがイエス様を人々に紹介した最初のことばですが、今、見ましたように、日をまたいで、繰り返されています。それは、ヨハネがイエス様という方をどのように理解していたかということを何よりも物語っていると言えます。そして、このことばの背景には旧約の二つのこととのつながりが見えます。その一つは、「出エジプト」の過越しの子羊(出エ12:3~7)。そして、もう一つは、「イザヤ」の苦難のしもべ預言です(イザ53)。ヨハネは、イエス様が旧約で預言されたメシアであるということを、そのように表現した。やがて、あの十字架の上で身体を裂き、血を流し、ご自分を罪の贖いのためのいけにえとして献げることになるという、贖いの業と結びつけて紹介しているのです。そして、そのような旧約の贖いのいけにえについて、「コロサイ」や「へブル」には次のように書かれています。
『これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります』(コロ2:17)。
「これら」とは、その前で述べられている旧約の様々な律法のことです。
『律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません』(へブ10:1)。
今日は聖餐式礼拝ですが、イエス様の十字架は、旧約における影ではなく、まさに、本体、実物であり、聖餐式は、私たちが、その本体、実物である贖いの業をずっと覚えるために行いなさい、と命じられたものです。
2.ナタナエル
そして、今朝、読んでいただいた箇所は、さらに「その翌日」の出来事です。最初の43節にピリポの召命の記事があります。彼も後に十二使徒の一人とされますが、ピリポというと、ある方は、「使徒」8章でエチオピアの宦官が乗る馬車を走って追いかけ、福音を伝え、洗礼を施したピリポを思い浮かべるかもしれません。しかし、そのピリポとは別人なんです。今朝のピリポは、ほぼ「ヨハネ」にしか登場しません。彼は、今朝の記事にあったように、ナタナエルがイエス様と出会うきっかけを作りました。このナタナエルも、ピリポと同じように影が薄いと言うか、その名前が、今朝の箇所と、21章のガリラヤ湖で復活のキリストと出会う場面に出てくるのみです。聖書学者の多くは、彼を十二使徒の一人で、やはり聖書にその名前だけしか出てこないバルトロマイと同じ人物だと考えているようです。それは、共観福音書で、いつも彼の名前がピリポの後に記されているからということなんですが、それだけを理由にというのは、ちょっと根拠が弱いような気もしますが、それはさておき、今朝の彼の物語を通していくつかのことを示されました。まず、その一つは、彼は、最初、ピリポのことばを疑いましたが、ピリポから「来て、見なさい」と勧められた時、素直にその勧めに従ったことです。皆さんは、「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見や思い込み)」、或いは「ステレオタイプ(性別・年齢・職業などで人を類型化する固定観念・イメージ)」ということばを聞かれたことがあるでしょうか?今朝の場面でナタナエルが言った、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ということばは、まさにその二つがくっついた典型的な「ステレオタイプバイアス」と言えます。しかし、彼は、その固定観念・イメージに固執し、議論を続けることはせずに、すぐにイエス様に会いに行きました。それは、「自分のこの目で確かめてやろう」ということだったと思いますが、私たちにとっても大切なことは、まずイエス様ご本人と出会うことだと思わされます。そこから始まる何かが必ずあるからです。イエス様は、ご自分の方に来るナタナエルを見て、「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と言われました。新共同訳は「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と訳していました。「まことのイスラエル人」とは、様々に解釈できるかもしれませんが、私は、さっきお話しした、旧約における「影」と新約における「実物」の関係を思い浮かべました。イスラエルは旧約の律法に生きた民。神に選ばれ、その選びにふさわしく生きるようにと命じられた民でした。つまり、旧約のイスラエルは新約から見れば「影」であり、新約の時代に、イエス様を自分のメシアと信じ受け入れ、新しい契約の民としてふさわしく生きるようにと命じられた人々こそが「実物」だということではないかと思うのです。そこでは、何人かとか、民族や性別、身分の違いは関係ありません。
『ユダヤ人もギリシャ人もなく~、キリスト・イエスにあって一つだからです』(ガラ3:28)
とは、そういうことですね。
<結論>
今、日本は選挙ですが、「外国人問題」「移民問題」が争点の一つになっています。世界を見渡しても、「〇〇ファースト!」と叫びながら、実は「自分ファースト!」な政治家が、分断と敵意を生み出し、収拾がつかないような状況になってきていますが、イエス様の福音は、そんな分断や敵意、この世の国家や民族の壁を打ち壊し、乗り越えてゆくものです。
『実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです』(エペ2:14~19)。
今朝のタイトルは、「まことのイスラエル人」とさせていただきましたが、「まことのイスラエル人」とはどんな人のことなのか?6~8節までを読んで、終わります。
『しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです』(ロマ9:6~8)。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌37番、メッセージ後:新聖歌242番
聖書交読
箴言27章 1~10節
2025年教会行事
2月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3010