希望を告白する

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネの福音書 21章15~23節>
    信徒:K

    開会聖句

    約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

    <へブル人への手紙 10章23~24節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・ヨハネ福音書の最後になりました。3年読んできましたが、ヨハネは珍しい記事が多かったですね。今日の最後もそうで、一旦20章で筆を置いたのに、追加したと考えられています。書き足す必要が生じたからで、かなりプライベートなことです。メインはペテロの召し。ここから、今日はペテロの召しとヨハネの召し、そして私たちの召しについて考えます。

    <本論>
    I.ペテロの召し

    先ず、前半の1~14節から。場所はティベリア湖。イエスさまの活動の中心であったガリラヤ湖のローマ名。彼らがここにいたのは、生前のイエスさまの命令(マルコ 14:28)だから。復活の墓の中にいた人物によっても繰り返されてます(16:7)。復活のイエスさまは、20章で 2度彼らに会われましたが、それで、彼らの沈んだ心が解消したわけでありません。まだ御霊が降ってませんから、彼らにはこれから先のことが全くわからない不安の中にいます。集まっているのは11人の弟子のうち、たぶんガリラヤ出身のメンバー。彼らは恐らくお腹が空いたのでしょう。ペテロたちは元漁師でしたから、漁に出るのですが、魚は網にかからず、夜は過ぎ、明け方になり、空腹が募ります。その時、岸辺に立つ一人の人が「網を右側に」と声をかけます。従うと、おびただしい魚がかかってます。それで、それがイエスさまだとわかって、急ぎ岸に戻
    ると、おこされた炭火と魚とパンがありました。彼らは5つのパンと2匹の魚の奇跡に大興奮したことを思い出し、このひととき、心もお腹も満ち足り、励まされたのではないでしょうか。しかし、心から素直に喜べない人物、ペテロがいました。7節で真っ先に行動してはいますが、あの失態以来、ペテロの存在は控えめに思います。ここでも、そうです。彼の心にはイエスさまへの壁がありました。ペテロの心はずっと傷んでいました。食事のあと、それを知るイエスさまはペテロに近づき、「わたしを愛しているか」と問いかけました。

    なぜ、この21章が追加されたのか?ペテロはパウロとともに、宣教の最前線に立つリーダーでした。彼はパウロと違って、ふさわしい家柄も知識もない漁師でしたが、イエスさまといる時から、皆が認める弟子たちのリーダー的存在でした。しかし、主を3度も否んだというペテロの失敗は、新しい異邦人教会の中の反対者たちを元気づけていました。それに対して、ヨハネはこの会話を記すことで、このペテロの失敗については、すでにイエスさまと解決済みで、イエスさまから確かに召しをいただいたリーダーだと報告しようとしたと考えられます。

    イエスさまが、ペテロに3度(15,16,17 節)も「あなたはわたしを愛していますか」と尋ねられたのは、ペテロが3度否んだからです。15節の「あなたは、この人たちが愛する以上に…」という質問は、以前に、

    「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)

    と言ったからでしょう。ペテロはあれ以来、まざまざと自分の弱さと愚かさを痛感していましたから、以前のように強気ではなく、とても控えめに答えています。イエスさまの使われたアガペーではなく、フィレオーを使って、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と自分の愛を告白しました。その度に「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは3度の問いかけをしながら、彼にイエスさまへの忠実な愛を確認させ、「わたしの羊を飼いなさい」というリーダーの役割を与えました。

    イザヤ42:3にメシアは「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことのないかた」と紹介されてます。葦は折れやすく、灯心はくすぶる。でも、メシアは折れやすいものでも折ってしまったりしない。くすぶってるものでも消してしまわない方。イエスさまは何事も権威をもって命じることができますが、決して力づくではなさいません。そばにいて仕えるものとなって、励まされる方です。私たちにとってもそうです。私たちは自分の失敗や無力に落ち込むことが多いのですが、イエスさまはくすぶる灯心のような者を、励まし、世に輝く光として用いてくださるのです。

    II.ヨハネの召し

    次に短く、ヨハネの召しについて考えてみます。21 章を書いたのは、ペテロの確かな召しと、

    23節「その弟子は死なない」

    という噂の誤解を解くためです。イエスさまがペテロの死に方まで言われたとき、後ろにいるヨハネのことが気になり、「この人は?」と尋ねます。イエスさまは

    22節「わたしが来る時まで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。」

    と返答されました。そのことばが、この弟子は死なないという噂になって、広がっていたので、それはイエスのことばの誇張であって、たとえそうであっても、それはあなたには関係ないでしょということだったと、ここで訂正をしました。

    しかし、死なないことはなかったけれど、彼は誰よりも長生きしました。彼のその後の情報はヨハネの黙示録を執筆したことです。パウロとペテロはネロ皇帝の迫害で殉教(67 年頃)。昔テレビの洋画劇場で「クオバディス」(主よ、どこに行きたもう)という映画を見ました。クリスチャンがライオンの餌食に、それが見世物にされたりする、私の迫害のイメージはここからです。ペテロがローマから去るとき、主に出会い、クオバディスと尋ねると、ローマへもう一度十字架にかかり行くと言われた。主のそのことばを聞き、彼は戻って殉教した伝説も描かれています。ヨハネは生き延び、第二次クリスチャン迫害(ドミティアヌス皇帝 81~96)の時に、黙示録を書き、苦しむ教会を励ましました。1~3章には、アジアの 7 つの教会が出て来ます。支配者の目を恐れ、当時の読者だけにわかるように「黙示」という特別な文学スタイルで書かれているので、難解なところです。彼の召しは、パウロやペテロのように、宣教の最前線というより、後方で教会という群れを守っていくことだったと思います。彼は十字架の上のイエスさまから母マリヤのことを託されました。それは、血縁を超えて、神の家族として生きるようにということだと以前話をしました。彼は教会という神の家族を支える。それが彼の召しだったと思います。

    <おわりに>

    今度は私たちの個人的な召しではなく、この時代を生きる私たちの召し、神さまが私たちに期待しておられることを考えます。今日の開会聖句はへブル 10:22~23「約束された方は真実な方ですから、私たちも動揺しないで、しっかり希望を告白し続けようではありませんか。…」
    希望こそ人を生かす力です。今日帰ったら、とっておきのあれを食べようというだけでも力がでます。ここは迫害が厳しさを増し、信仰を捨てる人が出て来た状況での励ましです。彼らの希望は再臨でした。黙示録は

    22:20「『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。…」

    で終わります。昇天されたイエスさまがまた同じように戻ってきてくださる。それが希望でした。しかし、イエスさまは来ず、時間が過ぎ、教会は信仰があれば、滅びないで天国に行き、また復活するという希望を持つようになりました。だから、一人も滅びないで全員がクリスチャンになるように、日本にも宣教が広がりました。勿論、これは私たちの大きな希望ですが、もう一つ付け加えたい希望があります。それは、シャローム(平和)という希望です。

    聖書は個々人の救いだけでなく、その人たちを通して神の価値観が実現し、神の願うシャローム、神の国が実現していくという神さまの計画が記されています。だから、イエスさまは

    「神の国はあなたがたのただ中にある。」(ルカ 17:21)

    と言われました。人間関係の中に神の願いがなされていくなら、そこに神のシャロームが現われます。しかし、人間が築いてきた社会は益々綻びが目立ち、特に人間関係は難しくなってきています。一つの記事、虐待される子どもと関わる現場の方の記事を紹介します。

    「子どもを取り巻く社会は、神さまへの祈り、嘆きをなくしては、受入れることができないような不条理に満ち溢れています。『なぜ、この子が・・・』と問いかけます。神さまの計画をすべて理解することはできません。しかし、どのような境遇でも、信じることができない現実を前にしても、神さまには平和の計画があるのです。私の役割は、誰も希望を見いだせない状況にあっても、神さまの計画に希望があることを信じ、祈ることです。勿論…」

    聖書の神さまを信じる私たちに期待される召しは、それでも、神さまの平和の計画があるという希望を信じ、祈り告白することだと思うのです。一つのみことばを読んで終わります。

    エレミヤ 29:11「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主のことばーそれはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」

    メッセージ内容のダウンロード(PDF229KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:477番、メッセージ後:385番

    聖書交読

    詩編54篇 1~7節

    2024年教会行事

    5月1日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

    #56-2917

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