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メッセージ
<ヨハネの福音書 19章16~27節>
牧師:砂山 智
開会聖句
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
<ヨハネの福音書 19章26~27節>
メッセージ内容
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<序論>
・今日から受難週になります。今朝の箇所の最初に名前のあるピラトは、この頃のローマ帝国のユダヤ総督ポンテオ・ピラトのことです。「使徒信条」にもその名前が出てきます。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信す。~ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、~」。考えてみれば、キリスト教会で「使徒信条」が唱えられる限り、ずっと彼の名前も唱えられ続けるわけで、少し気の毒なような気もしますが、ピラトはイエス様を十字架につけるため彼らに引き渡した人物です。
1.カエサルの友、ポンテオ・ピラト
この彼らとは、その前に出て来たユダヤ人たち、そして祭司長たちでした。この当時、ユダヤはローマの属州でしたので、ユダヤ人にはイエス様を死刑にする権限はありませんでした。ですから、彼らは総督ピラトにイエス様を死刑にするように願い出たのです。ただそれは脅迫まがいの手段によってでした。12節をご覧ください。
『ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた』(ヨハ19:12~13)。
この時のカエサルはティベリウスで、「疑い深い暴君」と呼ばれていたそうです。そんなカエサルに反抗していると思われたらまずいとピラトは日和ったわけです。15節でも、彼は「おまえたちの王を(なんで)私が十字架につけるのか」と、未練がましく愚痴をこぼしていますが、祭司長たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と答えています。これは驚くべきことばです。なぜなら、彼らは民の指導者として、神だけをイスラエルの真の王とするという先祖伝来の信仰に立っていたはずでした。なのに、イエス様を十字架につけたいがあまり、その一番大切な信仰さえも自ら否定したのですから。もう無茶苦茶と言うか、目的のためには手段は択ばないということですが、最終的に、そんな彼らにピラトは押し切られてしまったのです。けれども、だからと言ってピラトには責任がなかったかと言うと、そうとは言えないでしょう。
このピラトの姿から示されたことは、イエス様を主と告白し、自分の救い主と信じ従うことは、ある意味で、カエサルの友ではないと言われてもよいという覚悟を伴うものだということです。イエス様は、
「あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタ6:24b)
と言われました。もし、富をもたらしてくれるものが自分の人生の最終目的であると思うのなら、私たちは神に仕えることはできません。この世の生活と神に仕えることのどちらを第一にするかという選択は、信仰者がいつも迫られることでしょう。それに対して、私たちは、あれでもなくこれでもないという生活になってしまいやすいのではないでしょうか。そこに私たちの弱さがあるのです。「Ⅰヨハネ」には次のように書かれています。
『あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません』(Ⅰヨハ2:15)。
2.十字架のそばで
そして、19~22節までの十字架にまつわる短いエピソードですが、福音書記者の中でもヨハネだけが記していることです。何かピラトの「最後っ屁・最後のあがき」のように感じますが、十字架に掲げられた罪状書きが、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていて、それをピラトが最後まで書き直させなかったということは、象徴的な意味があるように思えました。それは、イエス様は、すべての人の救い主として十字架の上で死なれたということです。その後、兵士たちがイエス様の衣服をくじで分け合ったことは、ヨハネだけでなく他の三つの福音書も記していることですが、その後のエピソード、今朝の開会聖句は、またヨハネだけが記録していることです。今回、「ヨハネ」からお話しして、改めて、興味深いなぁと言うか、新たな発見がいくつもありましたが、この箇所もその内の一つです。
イエス様は十字架の上で息を引き取られる前、母マリアに「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」。また、母のそばに立っている愛する弟子に、これはヨハネだと言われていますが、「ご覧なさい。あなたの母です」と言われました。本福音書で母マリアが出てくるのは2章のカナの婚礼の場面以来ですが、イエス様は三十歳になるまで母や兄弟たちとともに生活し、それから神の召しを受け、家を捨て、親を捨てて公生涯に入られました。「マタイ」12章の最後には、イエス様がやっていることを理解できなかったマリアと兄弟たちが心配して話をしようとやって来たことが書かれています。その時、イエス様は
「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」(マタ12:48b)
と言われた後、
「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(同50)
と言われました。何か突き放すような冷たいことばのように感じますが、今朝の箇所で、十字架で殺される最期の時には、「ご覧なさい。あなたの母です」と、ヨハネに、自分亡き後の母のことを託されたのです。
ある意味で、神の召しに真剣に応えていこうとする信仰の道は、邪魔になるもの、それは父母や兄弟、妻子、そういう肉親の情や、ある場合には、自分自身さえも切り捨てていかねばならないという非情な道だと言えるかもしれません。もちろん、先程も申し上げましたように、私たちは、なかなかその非情さに徹しきれないのですが。しかし、親や兄弟、愛する人たちを捨てることが、そのままキリスト教であり、聖書の教えだと、果たして言えるのでしょうか。確かに、そのようなこともイエス様はおっしゃいました。ただそれは、道理だけ、信仰だけということではなく、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34b)
とも言われました。そして、
「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(同13:35)
とも。イエス様は、確かに、すべてを捨ててメシアとしての道を歩まれましたが、片時も母や兄弟たちのことを忘れたことはなかったのではないでしょうか。だから、あの十字架の上で息も絶え絶えの状態にあっても、そのいのちが終わろうとするときに、母を頼むと言われたのだと思うのです。
<結論>
そしてもう一つ、このイエス様のことばは、新しい神の家族の始まりを告げることばのように感じました。先程もお話ししたように、イエス様には兄弟姉妹がいたわけですから、本来であれば、その弟や妹たちに自分亡き後の母のことを託すのが普通でしょう。しかし、この時点では、彼らはイエス様のことを信じてはいませんでした。一方でヨハネは、他の福音書を見ると分かりますが、この時、マリアと一緒にいた姉妹の息子で、イエス様とは従妹同士であったみたいですが、イエス様がそのヨハネに母を託されたのは、既にご紹介したみことば。
「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタ12:50)
というみことばが現実のものとなったということ。ヨハネとマリアが、その先駆けとして神の家族となることを象徴的に示しているように思えました。教会は神の家族と言われます。もちろん、この世においては、本当の血のつながった家族のようにはいかないのですが、私たちは皆、イエス様の兄弟、姉妹、母として、お互いの弱さや苦しみを担い合う、そのような愛の関係性の中で生きるようにと招かれているのです。祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌114番、メッセージ後:新聖歌117番
聖書交読
詩編7篇 1~8節
2026年教会行事
4月1日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3018