なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨハネの福音書 20章19~23節>
牧師:砂山 智
開会聖句
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
<ヨハネの福音書 16章33節>
メッセージ内容
Youtube動画
-公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:4/11 PM 10:44
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・イースター、おめでとうございます!「ヨハネ」からの最終回です。復活の記事は四つの福音書すべてにありますが、それぞれで、その描き方には違いがあります。例えば「マルコ」などは、マグダラのマリアら、女性たちが、イエス様が葬られた墓を訪ねて行って、空になった墓の中で御使いと思しき青年から話しかけられ、驚いて逃げ去った場面で終わっています。何か尻切れトンボのように、突然、終わってるんですが、ヨハネは、今朝の箇所のすぐ後のトマスのエピソードを始めとして、実に多くの印象的なエピソードを残してくれています。今朝の箇所は、復活されたイエス様が、弟子たちに初めてご自身を顕された場面です。
1.身体のよみがえり
今朝の箇所の平行記事は「ルカ」24章にあります。36~43節までです。今までもそうでしたが、比べて読んでみると実に興味深いと言いますか、色々なことに気づかされます。弟子たちは、墓が空だったというマリアたちの話を聞いても、まだ半信半疑で、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていたのですが、彼らがいた場所はエルサレムないしはその近くであったと思われます。「ヨハネ」は、イエス様の公生涯がエルサレムから始まったと記し、最後の復活もエルサレムとその周辺での記事になっています。この点で「ルカ」と「ヨハネ」は共通性があると言えるでしょう。ただ、よく読むと、今朝の箇所にも微妙な違いがあることに気づきます。「ルカ」では、復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われたとき、弟子たちはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った、と書かれています。前の訳では、単に「霊」と訳されていましたが、【2017】から「幽霊」と訳が変わりました。英語では「ゴースト」です。もし、私がそこにいたら、真っ先にイエス様の足元を確認したのではないかと思います。「足はついているのかな?」と。それで、イエス様はご自分の手と足を示された後、まだ信じられないでいる弟子たちを見て、「ここに何か食べ物がありますか」と言われて、焼いた魚一切れを召し上がられたと記されていました。面白いですね。
先週、ポンテオ・ピラトの話をした時、「使徒信条」につて少しだけ触れましたが、その最後は次のようなことばで締めくくられています。
「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」
「使徒信条」は、キリスト教会の最古の信条で、普遍的に受け入れられています。(プロテスタントのみならず、カトリックや東方教会でも)。ですので、今日のように用いられるまでには、かなり長い形成の歴史がありました。一般的には三つの部分で成り立っていると考えられています。その三つとは、三位一体の三つです。つまり、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊なる神です。先程、お読みした部分は、その最後の聖霊なる神についての信仰告白と言えます。「Ⅰコリント」に、
『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として使者の中からよみがえられました』(Ⅰコリ15:20)
とありますが、私たちも、イエス様の復活と同じように身体がよみがえるんですね。ただこれは、私たち日本人だけでなく、聖書の時代から今日に至るまで、多くの人々にとっては特に理解しがたい点だったようです。人間には肉体と霊(魂)とがあって、もちろん、死ねばすべて終わり、無になると考える方もおられますが、死というのは肉体だけが滅びることであって、霊(魂)は肉体を離れて永遠に存在し続ける。それが天国か地獄かは分かりませんが、そのように考える方が多いように思えます(臨死体験などにおける幽体離脱?)。そのような考え方の根底には、目に見えない霊や魂は善で優れたもので清いものだけれども、目に見える肉体などは悪で劣っていて汚れたものだという、古代ギリシアの哲学からの影響が残っているように思いますが、聖書が言っている復活は、そういうことではないのです。
ヨハネは本福音書の最初の部分で次のように書き残しています。
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた』(ヨハ1:14a)。
この「人」の直訳は、脚注にあるように「肉」です。つまり、イエス様は私たちと同じような肉体を持ってこの世に来てくださったということです。それは、本当の意味で、私たちとともに生きるため、私たちと同じような試みに遭われるためでした。
また、パウロは「ピリピ」で復活の希望について述べた後、次のように言います。
『キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます』(ピリ3:21)。
2.聖霊を受けなさい。
そしてもう一つ、今朝の箇所で興味深く感じたのが、22節のみことばです。
『こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい』(ヨハ20:22)。
実際に弟子たちに聖霊が降るのは、この50日ほど後の、五旬節、ペンテコステの日で、その様子は「使徒」2章に描かれていますが、今朝の箇所で、復活されたイエス様は弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けなさいと言われた。「息」というのは、原典のギリシア語では「プニューマ」と言い、それは神によって与えられたいのち、聖なる霊を表します。この箇所を読んで思ったことは、聖霊は、私たちが神からの力をいただき、恐れずに勇気を出して一歩踏み出すために与えられる助け主だということです。この前の4月1日は水曜日でしたが、電車や街中で新入社員の姿をよく見かけましたが、私自身、就職で上京する前、なぜかは分かりませんが、心が得体のしれない恐れにとらわれていた時、勇気をもらったのが「Ⅱテモテ」のみことばでした。
『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました』(Ⅱテモ1:7)。
私自身は本当に弱く、ヘタレなんですが、私自身がどうなのかは問題ではなく、神が、聖霊を、力と愛と慎みの霊をこの私に与えてくださった。だから、勇気を出して一歩踏み出しなさい、と言っておられるように感じたんです。そのみことばが自分の中にあった恐れを取り除き、立ち上がらせてくれました。今朝の箇所でユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもっていた弟子たちも、復活されたイエス様から直接息を吹きかけられ、「聖霊を受けなさい」と言われた時、自分の内にはない勇気をいただいたのですね。その時と同じ聖霊なる神が私たちの内にもおられます。勇気を出していきましょう。
<結論>
『これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」』(ヨハ16:33)。
今朝のタイトルは「復活のことば」ですが、このみことばこそ、イエス様の復活のことばだと思います。私たちも、困難や苦しみの中に立たされ、そこが墓場のような希望のない世界のように感じる時があります。けれども、聖霊を受けた私たちは、イエス・キリストのこのことばのゆえに、墓が破られる時があることをかたく信じるのです。イエス様の復活は、私たちの人生において、どのような意味を持つのでしょうか?それは墓を破られた主が、私たちとともにいてくださるから、私たちがたとえどんなに希望のない世界におかれたとしても、そこにいつまでも閉じ込められてしまうことはないということではないでしょうか。復活の主がともにおられるのですから、今日も前を向いて歩き出しましょう。そして、明日も。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌126番、メッセージ後:新聖歌127番
聖書交読
詩編8篇 1~9節
2026年教会行事
4月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3019