エサウの歴史

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 36章1~9節>
牧師:砂山 智

開会聖句

傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

<イザヤ書 42章3節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・先週は32章から「悪人にも善人にも」と題してお話ししましたが、続く33章にはヤコブとエサウ兄弟の再会と和解の場面が描かれています。兄エサウが四百人を率いて近づいて来た時、ヤコブは非常な恐れを感じ、兄に近づくまで七回も地にひれ伏したと記されています。しかし、そんなヤコブの心配をよそに、エサウは弟を認めるや、走って迎え、抱きしめ、首に抱きついて口づけし、泣いて喜んだのです。感動の場面ですが、正直、エサウというのは、なんとお人好しと言うか、やっぱり単純で素朴な奴なんだと思ってしまいます。一方、ヤコブの方はどうだったかというと、依然として警戒心を解くことなく、兄へのへつらいのことばを何度も口にし、これから共に暮らそうという誘いも断り、エサウが住むセイルとは全く反対のスコテという町に自分の家を建て、そこに住むことにするのです。よく「足を踏んだ側はすぐ忘れるが、踏まれた側はその痛みを忘れない」と言われますが、この兄弟は逆だったのです。そして、ヤコブはしばらくしてシェケムへと移り、そこに祭壇を築き、これをエル・エロへ・イスラエル(33:20※イスラエルの神である神)と名づけたと記されています。シェケムは12章6節を見ると、かつてアブラハムが約束の地カナンに入った後、最初に祭壇を築いた町です。エルサレムの北約50キロ、ゲリジム山の東側の麓にあり、ヤコブはその町近くのスカルに井戸を掘ります。新約の「ヨハネ」4章には、その井戸でイエス様があのサマリアの女と出会われた話が記されています。

<本論>
1.わたしが報復する

さて、このシェケムでヤコブは思わぬ事件に巻き込まれてしまいます。それは34章に記されている、娘ディナにまつわる忌まわしい事件です。先住民の青年シェケムがディナを見初め、関係を持った後、妻にしたいと申し出ます。しかし、そのことを知ったディナの兄たちは妹が辱められたことに激怒し、悪辣な計略をもってシェケムの男たちを皆殺しにし、その全財産を奪い、幼子、妻たち、家にあるすべてのものを略奪するのです。この事件は、「日々のみことば」の執筆者の方も書いておられましたが、どうしても現在の世界情勢や過去の歴史を私たちに想起させるのではないでしょうか。ウクライナ、ガザ、そしてイラン戦争、等々。だいぶん前になりますが、あるドラマで「倍返しだ!」という台詞が流行りましたが、それが私たち人間の悲しい性と言うか、罪の性質なのでしょう。不思議なことに、この34章には一度も「神」ということばが出てきません。それは神を忘れ、その御顔を避けて、自分の思い通りに生きようとする人間の姿を暗示しているように思えます。しかし、やられたらやり返す。徹底的に報復する。その行き着く先には、一体、何があるのでしょうか?さっき、エサウのことを、お人好しで単純で素朴な奴、と言いましたけれども、もしかしたら、彼の方がずっと賢く、幸せに生きたのではないだろうか、と思ってしまいました。

『愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます』(ロマ12:19)。

先週のメッセージの最後に、私たちと同じルーツを持つメノナイトの聖書学者ネルソン・クレイビルのことばを紹介しましたが、大切なことは、壊れた世界へ救いの福音を広め、悪が最終的に自滅することは神にお任せし、それまでの間はイエスの教えに従い、イエスを模範として和解のために働くこと。日々の暮らしの中で、ちょっとしたことで、やり返したい、或いは、小さな報復をしてやろうというような気持ちになることもあるかもしれませんが、まず自分の身近なところから始めましょう。

2.祝福への再出発

『神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい』(創35:1)。

神は、ヤコブとその一族を復讐の連鎖から断ち切るように、新しい土地へ行くことをお命じになります。このベテル(神の家)こそ、彼の苦悩に満ちた人生から祝福への再出発点となります。その後、しばらくして、最愛の妻ラケルが末っ子のベニヤミンを産んで亡くなり、父イサクも亡くなります。

『ヤコブは、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところに着いた。そこは、アブラハムとイサクがかつて寄留していたところである。イサクの生涯は百八十年であった。イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った』(同35:27~29)。

イサクは久々の登場で、「お前、まだ生きとったんかー!」と思ってしまいましたが、ヤコブは妻ラケルの死の悲しみを背負いながら、父イサクのもとに行き、少なくとも十年以上、この親子は一緒に過ごしたようです。それは、双方にとって、それまでのわだかまりを解消し、傷ついた関係から回復するための大切な期間だったのだろうと思わされました。
そして、少し横道に逸れるかもしれませんが、今回の説教の準備をしていて、あることに気づきました。それは、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、来週、お話しする予定のヨセフなんですが、その中で、一番長生きしたのは誰だったかということです。皆さんは、誰だと思われますか?実はイサクなんです。アブラハムの生涯は175年、ヤコブは147年、そして、ヨセフに至っては110年。それぞれ、今の私たちからすれば十分に長生きなんですが、イサクはおとなしい性格で、地味と言うか、平穏無事な印象がありますが、最後もそうだったんですね。ヤコブと穏やかな余生を過ごし、死に際しては恐らくエサウも駆けつけてくれたのでしょう。さっきのみことばにもありましたが、彼は満ち足りて亡くなったのです。

③.どうでもよい者は一人もいない

今朝のタイトルは「エサウの歴史」です。冒頭に、

『すなわちエドムの歴史である』(創32:1)

とありましたが、エドムとは「赤い」という意味で、彼が生まれた時、赤くて、全身毛衣のようであったということ(同25:25)。そして、長子の権利を赤い煮物と取り換えたという故事から(同25:30)、そう呼ばれています。その子孫は後にイドマヤ人と呼ばれるようになり、ヤコブの子孫であるイスラエル・ユダヤ人と様々な争いを繰り広げることになります。ちなみに、あのクリスマス物語のヘロデ大王はその末になるんですね。そして、今朝は36章の9節までしか読んでいただきませんでしたが、この後には、エサウの子孫の名前が延々と羅列されています。とても読む気にならないのですが、ある本に、それは、聖書が告白する神は全世界、否、全宇宙の神であるということである。ただイスラエルはその神の救いの御業遂行のために召された僕にすぎないということである。従って、神にとってそれがどんなに小さい存在であろうと、現在どんな状態の中にある者であろうと、自身はその者の神でいましたもうのである。神にとってはどうでもよい者は一人もいないのである、と書かれてあり、本当にそうの通りだと思わされました。

<結論>

<結論>
今朝の開会聖句は「イザヤ」の「しもべの歌」と呼ばれている箇所の一節です。
私は、時々、「B級グルメツアー」と銘打って、親しい牧師たちと一緒にラーメンなんかを食べに行くことがあるのですが、やっぱり、「A級グルメ」だけでは面白くないですよね。また、最近、所謂「サブ・カルチャー」なるものに興味津々なんですが、金子みすゞという方の詩に、「みんなちがって、みんないい」という有名な詩があります。誰もが違う個性や能力を持っており、優劣をつけるのではなく、その人なりの良さを認め合い、大切にしあう多様性こそが、本当に豊かな世界なのだという。
傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う方を仰ぎ見つつ、今週も歩んで行きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF115KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌154番、メッセージ後:新聖歌220番

聖書交読

詩編13篇 1~7節

2026年教会行事

5月13日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-302④

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