なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 27章30~40節>
牧師:砂山 智
開会聖句
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
<ピリピ人への手紙 2章12節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:4/25 PM 10:12
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」です。聖書にも兄弟の物語は色々ありますが、その中でも、今朝のエサウとヤコブの物語は、特に良く知られた物語ではないでしょうか。
1.リベカの謀
二人は双子の兄弟でしたが、その気質はかなり違っていました。
『エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた』(創25:27b)。
エサウが狩人で野の人であったというのは、彼が原始的で安定を欠くということを暗示しており、それに対して、ヤコブが穏やかな人で天幕に住んでいたとあるのは、静かであると同時に、強い社会の結びつきの中での平穏な生活を暗示している、とある本で解説されていました。要するに、エサウは単純で粗暴、ヤコブは狡猾で世渡り上手だということでしょう。そして、次の28節には、父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛していた、と書かれていました。普通、親であれば、子どもたちにはできるだけ平等に、と考えると思いますが、やっぱりお互い人間同士、馬が合う合わないということもあるんですね。ですから、母のリベカは、何としてでも自分のお気に入りの息子ヤコブを優位に立たせたいと、父イサクから祝福を得るための謀を巡らせます。イサクが年老いて目がよく見えなくなっているのをよいことに、ヤコブを変装させて、イサクが触って確認しようとした時、毛深いエサウと勘違いするように仕向けるのです。今朝の箇所の前の所には、その謀が見事に成功したことが書かれています。ただ、その前に、見落としてはならないことがあります。それは25章22~23節の、二人が生まれた時の話です。
『子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」』(同25:22~23)。
このことは、恐らく父のイサクも知っていたことでしょう。それにもかかわらず、彼は自分のお気に入りの息子エサウの方に祝福を与えようとしたのです。もしかしたらイサクは、子どもたちが争うことがないようにと考えて、常識的判断として長男のエサウを跡取りにしようとしたのかもしれませんが、そこに根本的な間違いがあったのです。私たちには、このリベカのようにはっきりとしたみこころが示されるということは殆どないかもしれませんが、大切なことは、まず主のみこころを求めること。そして、イエス様が「主の祈り」で教えてくださったように、主のみこころがなりますようにと祈りつつ、示されたと思う道に一歩踏み出すことではないかと思います。
2.浅はかなエサウ
そして、今朝の箇所ですが、エサウは、弟ヤコブが父を騙して、祝福を奪ってしまったことなど露知らず、猟から戻って来ます。それにしても、素直に思うのは、母から唆されたとはいえ、年老いて目が不自由になった父を騙したヤコブの方が最終的に祝福を受け、正直に父のことばに従って山野を駆け巡り、父のために真心から料理を用意したエサウが祝福から漏れるというのは、なにか理不尽と言うか、首を傾げたくなりますよね。ある方は、これは旧約の時代の話なので、その道徳感覚も、今の私たちの道徳感覚とは違っているから仕方がない、と考えるようです。確かに、当時の社会と今の社会とを比べれば、その社会制度や常識は大きく異なっていますし、当時の人たちの道徳感覚も今の私たちとは違うでしょう。ただ、それらのことを踏まえた上で、私たちは、今朝のこの.き出しの人間性が現れたようなリアルな物語から、一体、何を示されるのか?それこそが、聖書の普遍的・霊的解釈、そして適用ということなんですけれども、私たちは、この、一見、道徳に反するような物語の中に、神の峻厳さが表されているということを見落としてはならないと思うのです。38節を、もう一度ご覧ください。
『エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」エサウは声をあげて泣いた。』(創27:38)。
ある旧約の学者は、このエサウのことばは、罠にかかった獣の叫びのように、聖書中、最も哀調に満ちたものである、と述べています。本当にその通りです。けれども、それと同時に、このエサウの叫び、涙には、彼の神に対する不真面目さ、不真実が隠されているとも言えるでしょう。少し前になりますが、25章29~34節を読むと、そのことがより一層はっきりします。エサウは、猟から帰って来て、ちょっと腹が減ったと言って、大切な「長子の権利」。これは父のような族長になれるということと、他の子どもと比べて2倍の相続分が受け取れるという権利ですが、その権利をヤコブが作ったパンとレンズ豆の煮物と交換して、彼に売り渡していたのです。本当に浅はかでいいかげんな奴なんですが、イエス様は、山上の垂訓の中で、
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタ6:33)
と言われました。新改訳聖書を見ると、その「求めなさい」という所に※※があって、脚注に、※※あるいは「求め続けなさい」と説明があるのですが、自分はどうだろうかと思わされます。自分の中の優先順位は、まず神の国と神の義を求めるのではなく、自分が、今、欲するものを、こっちの方が大切だと思うものを、求めていることの方が多いのではと。そんな自分には、とても今朝のエサウを「浅はかな奴」と笑うことはできないなぁ、と思わされます。
<結論>
朝の開会聖句はパウロのことばですが、このみことばについて、あるカトリックの神父さんが面白いことを述べておられたそうです。信仰には「中心」と「まわり」がある。私たちは中心のことよりもまわりのことに一生懸命になりやすい。それは、例えば、教会で言えば、バザーとか事業のようなこと。或いは、クリスマスのお祝いとか、そういうことですね。ところが、中心であるイエス様による自分の救いはおろそかにしている。これが今の教会、クリスチャンの姿ではないだろうかと。
パウロが、ここで「自分の救いを達成するように努めなさい」と言ったのは、決して自分の信仰の力や、何か精進をして、自分の救いを達成するように努めなさい、という意味ではありません。彼は、その前の5節で、
『キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい』
と勧めた後、6~8節で述べているように、キリストが、ご自分を空しくして、どこまでも神のみこころに従われたように。そして、それゆえ、神によって高く上げられ、すべての名にまさる名を与えられたように、あなたがたも、ということですね。14節に、
『すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい』
とありますけれども、たとえそれがどんなに小さなことのように見えたとしても、用いてくださるのは神であり、一切は神の御手の中にあります。神はその小さなことをも豊かに用いてくださるのです。そう信じて、今週も歩んで行きましょう。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌316番、メッセージ後:新聖歌384番
聖書交読
詩編10篇 1~18節
2026年教会行事
4月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3021