ヨセフ 神を恐れる者

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 42章6~18節>
牧師:砂山 智

開会聖句

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

<ローマ人への手紙 5章3~4節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・「創世記」は37章から最後の50章までヨセフの物語になります。ただ、38章だけは、ユダにまつわる変なエピソードなんですが。ヨセフはヤコブの十二人の息子たちのうちの十一番目で、同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンとともに、父から特別な愛情を注がれて育ちます。それだけでも、腹違いの兄たちからすれば、「憎たらしい奴」だったと思いますが、ある時、ヨセフは不思議な夢を見ます。彼の物語には夢にまつわる話が多いのですが、この時、ヨセフが見た夢というのは、兄たちや、父や母までもが、自分にひれ伏すという夢でした。そして、よせばいいのに、彼はその夢の内容をそのまま兄たちに話してしまいます。それで、ヨセフは、兄たちからさらに憎まれるようになり、遂に兄たちは、ヨセフを通りがかったイシュマエル人に奴隷として売り飛ばしてしまうのです。

<本論>
1.伏線回収

その後、ヨセフはエジプトの地で奴隷として働くことになりますが、神は彼を顧みられ、何度も何度もピンチに直面しながらも、「ところが」で始まる神の介入によってそのピンチを乗り越え、一奴隷の身分から、遂には絶対的な王ファラオに次ぐ宰相の位にまで上り詰めることになります。あの豊臣秀吉も真っ青という感じなんですが、この辺の話は何度読んでも面白いですね。そして、ある日、そんなヨセフのもとに、かつて自分を奴隷として売り飛ばした兄たちが訪ねてきます。それが今朝の場面ですが、この頃、エジプトや周りの国々で大飢饉が発生したため、兄たちは食糧を求めてエジプトにまでやって来たのです。実は、この少し前、ヨセフはファラオが見た不吉な夢を大飢饉の正夢と解き明かしたことで、ファラオから絶大な信頼を得ていましたので、エジプトには十分な食糧が蓄えられていたのですね。
さて、今朝の冒頭、6節には、

『ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ』

とありました。これは、さっきお話ししたヨセフが見た夢がその通りになったということなんですが、よく、小説や映画、ドラマなどで、物語の序盤に出てきた小さな謎や出来事が、終盤になって、「ああ、そういうことだったのか!」と、その意味がはっきり分かることがあります。「伏線回収」と呼ばれ、ドラマなどを盛り上げるための一つの手法ですが、ある意味、この場面は、ヨセフ物語を盛り上げるための「伏線回収」と言えるかもしれません。
そして、続く7節には、

『ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った』

とありました。それは、彼が兄たちのことを恨んでいたからとも解釈できますが、前の6節前半に、この頃、ヨセフのもとには、他の国からも食糧を求めて大勢の人々がやって来ていたとありましたので、ヨセフとしては、立場上、兄たちにもそのように接するしかなかったのだと思われます。なぜなら、彼らにだけ妙に馴れ馴れしくというか、フレンドリーに接するのも、不自然に思われてしまいますので。そして、それ以上に、ヨセフは、とても思慮深い、神からの知恵をいただいた人でしたので、そんなに簡単に自分の心の内を見透かされるような振る舞いをすることはなかったでしょう。

『ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった』(同42:8)。

かつて、兄たちに奴隷として売り飛ばされたとき、ヨセフは17歳の青年でしたが、今は38歳という年齢で、それも、この地の最高の権力者である宰相の地位にあったわけですから、兄たちがヨセフだと分からなかったのも無理はなかったでしょう。

2.深謀遠慮

そして、ヨセフはそんな兄たちに向かって言います。

『「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」』(創42:9b)。

その前には、かつて彼らについて見た夢を思い出してとあります。しかし、ヨセフは感情的になって思わずそのように口走ってしまったということではないでしょう。彼は、この時、一人だけ来ていなかった末の弟ベニヤミンのことが気がかりであったので、そのように言ったのではないでしょうか。なぜなら、ベニヤミンは、自分と同じく、リベカを母として生まれた、他の兄たちから見れば腹違いの弟で、父ヤコブから、特別愛されていたということも、ヨセフは知っていたからです。「もしかしたら、弟のベニヤミンも、自分と同じように兄たちから何か悪いことをされているのではないか」と思って、彼は弟の安否を確認し、兄たちがベニヤミンに対してどのような思いを抱いているのかを確かめようとしたのでしょう。だから、その後にあるように、彼らに弟をエジプトまで連れて来るように命じるんですね。

『こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた』(同42:17)。

ヨセフは彼らを三日間、監獄に入れますが、四日目には新しい条件を提示します。それは今朝は読んでいただきませんでしたが、この後の20節までに記されています。正に深謀遠慮と言うか、厳しい飢饉に直面しているであろう父たちに一刻も早く食糧を届けるため、兄の一人を人質に取ったうえで他の兄たちに穀物を届けさせ、末の弟ベニヤミンを連れて戻って来るように、と命じるのです。
今朝のメッセージの最後に注目したいのは、その最初のことば、18節です。

『「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから』(同42:18b)。

ヨセフは、今や、世界最高の権力者であったと言ってもよいでしょう。毎日毎日、世界中の国々から大勢の高官たちが食糧を分けてもらおうとやって来て、兄たちと同じように顔を地に付けて彼を伏し拝んだのです。私なら、すぐに勘違いしていたと思います。「どうだ!俺様はすごいだろう!!」と、自分が神になったかのように錯覚し、今だったらSNSにAIかなにかで作った変な画像を投稿していたかもしれませんが、ヨセフはそうではありませんでした。彼は決して驕ることはなかったのです。自分をこのようにしてくださったのは神であって、自分はその僕に過ぎないということを、彼は決して忘れていなかったのです。

<結論>

<結論>
今朝の開会聖句は、ヨセフのことを、彼の歩みのことを思っていた時に、頭に浮かんできたのですが、正に彼は、苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、そして、練られた品性が希望を生み出すということを、自分の身をもって証した人でした。そして、もう一つ、彼の姿から覚えたいことがあります。それは、私たちには神の見えない計画を理解することはできないということです。そして、どれだけ自分が熱心に祈り、信じたからといって、その計画を自分の思い通りに動かしたり、自分の願い事が必ず聞かれるというものでもないということです。もし、そうじゃないと思っているとしたら、それは結局、神を自分の理解できる範囲内で探そうとしているということになります。そして、そうなると、神ではなくて自分を見ているということになるでしょう。そんな時には、「信じているのだけれども、なぜか苦しい」と、心が苦しくなってくるのではないでしょうか。なぜなら、私たちの苦しさを解決してくださる方は神であって、自分ではないからです。解決する力は、自分のうちにではなく神のうちにあります。私たちは、神を理解しよう、自分には神が理解できるという、自分中心な思いから解放されることが必要なのです。そうすると、心に隙間(スペース)ができて、神からの恵みを素直に感謝して受け取れるようになる。そんな気がします。私たちが本当の意味で神を知るとは、この私が神を理解することではなくて、神がこの私を知っていてくださっているという関係性、安心感(平安)なのです。今朝のヨセフがそうであったように、私たちも、いたずらに神を恐れる者ではなく、正しく神を恐れる者でありたい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF96KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌148番、メッセージ後:新聖歌442番

聖書交読

詩編14篇 1~7節

2026年教会行事

5月20日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3025

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