心を一つにして

メッセージ

<エズラ記 3章1~9節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

見よ、なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。

<詩編 133篇1節>

メッセージ内容


序論) 
・南ユダ王国は、紀元前587年、バビロニアによって滅ぼされました。捕囚の民となったユダの人々にとって、唯一の希望はエレミヤの預言でした。

『まことに、主はこう言われる。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる』(エレミヤ29:10)。

「エズラ記」は、このエレミヤの預言の成就を振り返り、神の約束の真実を確かめたエズラが母国に帰り、宗教改革を行った記録です。

本論)
1、 自発的に
「エズラ記」は大きく二つに分けられます。前半は1~6章で、エルサレム帰還から神殿の再建までが記されています。この6章までは、エズラという人物は登場しません。なぜなら、エズラは第一次の帰還民の中には入っていなかったからです。
バビロニアを滅ぼしたペルシヤ王キュロスは、紀元前538年に勅令を発布して、捕囚となっていたユダヤ人たちに帰還を許し、奨励します。この時、総督ゼルバベルの指揮のもとに帰還した人たちは四万二千三百六十人(2章64節)。これが、第一次帰還民です。そして、彼らは、その翌年、神殿の再建工事に取り掛かります。

『イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た。そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるために、イスラエルの神の祭壇を築いた』(1,2節)。

1節で『民は一斉に』と訳されているヘブル語「ケイシュ・エハード」は、直訳すると「一人の人のように」という意味になります。つまり、四万人以上もの人々が、「一人の人のように」=「心を一つにして」、エルサレムに集まって来たわけです。そして、もっと驚くべきことがあります。それは、彼らが集まって来たのは、誰かの命令や指示によるものではなかったということです。もし、これが、祭司や総督ゼルバベルのような指導者の命令によるものであったなら、1節と2節は順番が逆になっていたはずです。けれども、祭司や総督ゼルバベルたちは、「心を一つにして」集まって来た民を見て、彼らの熱い思いに背中を押されるようにして、神さまの祭壇を築いたのです。このことは、私たちに大切なことを教えてくれているように思います。それは、自発的な信仰の大切さ、ということです。
福音書を読むと、イエスさまが、たびたび、パリサイ人のことを非難しておられることに気づきます。彼らは、当時のユダヤにおいて、誰よりも固く旧約律法を守る人たちでした。けれども、彼らの信仰には、何か大切なものが欠けていたように思います。それは、信仰生活の感動、喜びというようなものです。彼らは、自分たちは律法を守っているから正しいんだと言って、自らの正しさを示すことだけに拘りました。そして、他の人たちを見下していました。だから、イエスさまは、彼らを厳しく糾弾されたのです。聖書のみことばを守ることは、大切なことです。もちろん、私たちは誰も、みことばを完全に守ることはできないのですが、ただ、その動機が、怖い神さまの裁きを恐れてとか、自分の正しさを証明するためというような、後ろ向きなものであってはならないと思うのです。そうではなくて、今日のイスラエルの民がそうであったように、バビロン捕囚(罪の縄目)から解放してくださった神さまに対する感謝、熱い思いから、喜んで自発的に従う、そのような者でありたいと願います。

2、 同じではなく、一つに
そして、もう一つ、今日のテキストから示された大切なこと。それは、「心を一つにして」ということです。
後半の6~9節には、祭壇の建設に続いて、いよいよ神殿の礎を据える工事に着手した民の姿が描かれています。

『こうして、ヨシュアと、その息子たち、その兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たちは一致して立ち、神の宮の工事にあたる者たちを指揮した。ヘナダデの息子たちと孫たち、そのレビ人の兄弟たちもそうした』(9節)。

この『一致して立ち』というのは、1節の『民は一斉に』ということばと同じく、「心を一つにして立ち」という意味です。
ただ、気をつけなければならないことがあります。それは、「一つである」ということと、「同じである」ということとは違うということです。
11節の後半から、神殿の礎が据えられたときの、民の姿が描かれています。

『こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は、喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた』(11b~13節)。

老人たちが大声を上げて泣いたのは、恐らく、今、据えられた宮の基を見て、かつての神殿の壮麗さを想い、また、これまで体験した捕囚の悲惨さを想って、感極まって泣いたのだと思います。けれども、若い人たちは違いました。彼らは、喜びにあふれて声を張り上げた、と記されています。その思いは決して同じではなかったんです。老人は老人のように、若者は若者のように、「悲喜こもごも」「混然一体」と言いますか、そのような中にあって、彼らの心は一つになったのです。

結論) 
私たちの教会も、それぞれが異なっています。年齢も、性格も、好みも、これまでの信仰の歩みも違います。決して同じではありません。また、同じでなければならないということもありません。しかし、同じではなくても、一つであることはできるはずです。あのパウロが、「コリント人への手紙第一」で

『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です』(Ⅰコリント12章25~27節)

と言っているのは、そういうことではないでしょうか。互いの違いを認め合い、受け入れ合って、その上で、心を一つにして歩んで行きたいものです。

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新聖歌

開会祈祷後:233番、メッセージ後:244番

聖書交読

詩篇 90篇1~12節

2018年教会行事

4月11日(水) オリーブいきいき百歳体操スタート!(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)

#50-2601

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