すでに、そして、今もなお

メッセージ

<マタイの福音書 3章1~12節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。

<マタイの福音書 3章2節>

メッセージ内容

<序論>  
・今回のメッセージから、しばらく「マタイの福音書」になります。2章までは、クリスマスの出来事。3章で、バプテスマのヨハネが登場します。マタイは、ヨハネのことを、

『この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。』(マタイ3:3)

と紹介しています。「日々のみことば」の執筆者は、「荒野は人の声が聞こえない場所。神の御声を聞く場所」と書いておられました。確かに、そう感じます。私たちも、人生の荒野(試練)において、神の御声を聞きます。

<本論>
1、バプテスマ(洗礼者)のヨハネ

バプテスマのヨハネの生い立ちは、「ルカの福音書」に記されています。ヨハネは、祭司ザカリヤとその妻エリサベツの子として生まれました。エリサベツは、イエス様の母マリヤの親類でしたので(ルカ1:36)、ヨハネもイエス様の親類ということになります。
ヨハネが生まれる前、御使いガブリエルがザカリヤに現れ、次のように告げます。

『彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。』(同1:17)。

伝承によると、ヨハネが生まれた時、両親はすでに高齢になっていたので、ヨハネは幼くして孤児になったと伝えられています。そして、ルカ1章80節には、

『幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた』(同1:80)

とあります。このことから、彼は、あの死海写本が発見されたクムラン洞窟辺りを根城としていた、ユダヤ教の一派である「エッセネ派」に属していたのではないかと考える人たちがいます(異論あり)。エッセネ派というのは、新約聖書には出てきませんが、紀元一世紀に書かれたヨセフスやフィロンという歴史家の著作によってその存在が知られるようになりました。彼らは、当時のユダヤ教主流派(エルサレム神殿での祭儀を中心としたユダヤ教)を堕落していると見なし、俗世間から離れ、死海沿岸の荒野で、自分たちだけの共同体を形成していたと言われています。その数は4,000人程であったそうですが、一切の財産を共有とし、朝早く起きて祈り、午前中は農作業、その後、白い麻布をまとったまま沐浴し、共同で食事をとることが日課であったようです。このように、男性だけで厳格な共同生活を送っていたエッセネ派は、ヨハネのような孤児たちを集め、自分たちの後継者として大切に育てていたそうです。今日のテキストに、

『このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。』(マタイ3:4)

とありました。何か、一切の虚飾を排して荒野で生活する仙人・修験者のような、逞しいヨハネの姿が浮かんでくるようです。

2、悔い改めなさい。天の御国が近づいたから

また、エッセネ派は、この時代が終わりの時(終末の時代)であると考え、そのように生きた人たちでした。先程もお話ししたように、御使いガブリエルは、ヨハネのことを、エリヤの霊と力で、主に先立って歩む人だ、と告げました。これは、旧約聖書の「マラキ書」4章にある預言に関係があります。

『見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。』(マラキ4:5~6)。

ヨハネがエッセネ派であったかどうかについては、断定することはできませんが、彼が果たした役割は、終末の時代に、エリヤの再来として、イスラエルの民を偶像礼拝から真の神に立ち返らせ、その心を神に向かって備えさせることにあったのです。

『「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」』(マタイ3:2)。

『悔い改め』ということばは、原典のギリシア語では「メタノイア」と言います。これは、「メタ(変更)」と「ノエオー(認識する・考える)」という二つのことばを合わせたものです。日本語で「悔い改め」というと、「後悔する」或いは「懺悔する」という意味として受けとめる方が多いかもしれませんが、ギリシア語では、「方向転換する」、或いは「視点(座)を変える」という意味に近いと思います。ヨハネが説いた、悔い改めのバプテスマ(洗礼)も、形式的・表面的なものではなくて、罪を離れて、真の神に立ち返るための、決定的な告白の行動をとることであったと思われます。また、『天の御国』ということばですが、マルコやルカなどでは『神の国』とされています。これは、マタイは、主にユダヤ人を読者と想定してこの福音書を書いたので、『神』ということばを使うことを避けて、『天』ということばを使ったのではないかと言われています。また、口語訳聖書などは、これを『天国』と訳しています。『天国』と訳すと、人間が死後に行く場所というイメージが強くなりますね。しかし、この『御国』(バシレイヤ)ということばには、本来、「王国」以外に「王権」「支配」「統治」というような意味があり、どちらかというと、後者のニュアンスのほうが強いそうです。つまり、ヨハネが言う『天の御国』は、未来の、死後のことというよりも、神様の支配や統治が、すでに始まっているということを意味していると思います。このことは、『近づいたから』と訳されているギリシア語の形を見ると、より一層、はっきりします。このギリシア語は、完了形で書かれています。「新約聖書」で、完了形のギリシア語が使われることは珍しいのですが、あえて使われている場合には、深い意味があるようです。ギリシア語の完了形は、継続や結果を表す。つまり、ある動作がすでに完了していて、その結果が現在にまで残っているということを表します。ということは、この場合には、「天の御国は、すでに(私たちに)近づいた。そして、今もなお、近くにあるのだ」ということになります。

<結論>
今日のテキストの後半の7節以降には、当時の宗教指導者たち(パリサイ人やサドカイ人)に対する厳しいことばが書かれています。ヨハネは、彼らの本心を見抜いて、そのように語ったのだと思いますが、彼のことばは、一般論としてではなく、あなたはどうなのかと、聞く者に対して、生き方や行動の変化を迫ることばでした。先程も申し上げましたが、「悔い改め」(メタノイア)とは、単に後悔したり、悲しむことではなく、感情や心の変化を意味するものでもありません。それは、神の愛に基づいて自分の行動を選び取るという態度を表すことばであり、私たちの生活が変化し、行動が変化することを意味しているのです。それは、言い換えれば、私たちが本当に変えることができるものは、この世の現実ではなく、また、自分以外の人間の行動でもなく、自分自身の生き方、それしかないのだ、ということを教えてくれているように思えます。
そして、もう一つ、大切なことがあります。それは、先週のメッセージで、若者世代のことをお話しました。彼らは、死後の話よりも、現在の生き方が変えられることを重視すると。ただ、それは、考えてみれば、当たり前のことなんです。自分の若い頃のことを考えてみても、死というものを、自分のこととして、リアルに考えるということなんか、ほとんどなかったですから。しかし、一方で、余りにも死後のことなんかどうでもよくって、現在の生活だけが大事なんだ、となってしまうと、それはそれで、現世利益の世界に行ってしまう危険性があると思います。イエス様は言われました。

『自分のために、天に宝を蓄えなさい。』(マタイ6:20)。

あなたがたは、そのような生き方をしなさいと。私たちは、すでに、近づいた天の御国の民として行動したいと思います。そして、今もなお、近づきつつある天の御国が、やがて完全に姿を現す日を想って(それは自分の死を想うということかもしれませんが)、日々、歩んで行きたいと思います。

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新聖歌

開会祈祷後:221番、メッセージ後:448番

聖書交読

詩篇 107篇1~16節

2019年教会行事

1月16日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2642


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