思いを一つにして

メッセージ

<ピリピ人への手紙 1章27節~2章4節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

<ピリピ人への手紙 2章2節>

メッセージ内容


<序論>  
・「ピリピ人への手紙」はパウロの「獄中書簡」の一つです。パウロは、最低でも三回、大きな伝道旅行をしたようですが、その第二回目の際に、彼はピリピを訪れて伝道し、紫布の商人リディアというご婦人や看守らが信仰に導かれ、ヨーロッパにおける最初の教会が誕生しました。そのあたりの経緯は、「使徒の働き」16章12節以降に記されていますが、パウロはピリピを去ってからも、ピリピ教会の人たちとずっと親しい交わりを持ち続けたようです。「ピリピ人の手紙」4章15、16節には次のようなことばがあります。

『ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を宣べ伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれたではありませんか』。

テサロニケというのは、パウロがピリピのすぐ後で伝道した町です。ピリピ教会はパウロが去った直後から、この手紙を書いている時まで、ずっとパウロの活動を経済的に支えてくれていたんです。ですから、この手紙には、ピリピ教会に対するパウロの感謝と喜びが溢れています。ただ、それは、単にピリピの人たちが自分に良くしてくれたからということではなくて、彼らが、キリストの福音を伝えることに、ともに携わってきてくれたから、同労者でいてくれたからなんです(1章5節)。今日は「思いを一つにして」と題して、「喜びの書簡」とも呼ばれている「ピリピ人への手紙」から、皆さんと一緒にみことばに聴きたいと願っています。

<本論>
1、キリストの福音にふさわしい生活

『ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい』(ピリピ1:27a)。

新改訳聖書の脚注には、※別訳とあって「市民として生活しなさい」と書かれていますが、パウロがピリピの教会の人たちに勧めているのは、キリストの福音にふさわしい市民としての生活でした。それは、恐らく会堂というものを持っていなかった当時のクリスチャンたちにとっては、ごく自然なことであったと思います。また、ローマの社会の中で、まだ始まったばかりであったキリスト教会・クリスチャンたちにとって、周囲の人々が抱いているであろう警戒心を解き、良い印象を持ってもらうためにも、キリストの福音にふさわしい市民として生活することは、何よりも大切なことだったのではないでしょうか。
ここに一枚の原稿があります。これは、1961年2月20日に日本基督教団宣教研究会というところから出された「革新される教会」と題する提言です。オランダから来た宣教師のクレーマー博士という人が、2か月間、日本に滞在した後、離日する際に行った講演からの抜粋なんですが、ここに大変示唆に富んだ、率直な意見が書かれていましたので、その一部ですが、ご紹介します。

「先ず、結論から申し上げる。日本の教会、つまり諸君の教会は、かつて西洋の宣教師から与えられた固定観念や型にあまりにも固執しすぎている。しかも、このような過去のイメージを、諸君は聖なるもの、犯すべからざるもの、変更など全く思いもよらぬものと考えている。これは、驚くべきことだ。だから、日本の教会は、他に宣教しようとしていながら、一般からは自己中心的、閉鎖的な生き方をしていると見られているのである。たとえば諸君は、教会と言えば制度化された教会が唯一の規範と思っているらしい。教会とは会堂と牧師がいるものだという考えに、諸君は惑わされているのではないか。だが、このような固定観念は教会の真の生命を抹殺し、その進歩を圧死させてしまうものだ。この固執こそが、諸君は西欧世界と異なった日本において、壁にぶつかる原因なのである。ほんの僅かの信徒しかいないのに教会堂を持ち、専任牧師がいると考え、そこから申し訳程度の謝儀が生まれる。要するに諸君の間には、あの原始教会に見られるような、聖書的な自由闊達さがないのだ。諸君は言う。日本のキリスト者は少数であると。しかし、もし諸君が自己革新的なキリスト者であれば、人数は問題ではないはずだ。キリスト者とは、少数にひるまず、多数を誇らず、ひたすら真実な信仰によって、預言者的に生きる者ではないか。諸君の間では、教会生活と日常生活とが分離しているように見えるが、これは大きな誤解だ。教会は日常生活の只中にあってこそ、生きて行くべきものなのだ。」

私たちの教団の中にも、「家の教会」というビジョンを掲げて、家庭での集会(礼拝)を積極的に行っている教会があります。その目的は、今、お話ししたような教会生活と日常生活との分離をなくしたい、ということにあると思います。イエス様も、決してこの世から分離したようには歩まれませんでした。むしろ、

「あの人は罪人のところに行って客となった」(ルカ19:7)

と皆から文句を言われるほど、当時、非宗教的と見なされ、汚れた罪人と見なされていた人々とともに歩まれました。私たちは、否、私はどうなのかな、と思わされます。

2、ピリピ教会にあった不一致

そして、この手紙の2章以降で、パウロはピリピの人々に向かって次のように言います。

『ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。』(ピリピ2:1,2)。

最初にお話ししましたように、ピリピの教会は、パウロの伝道活動を熱心にサポートしてくれるような、愛に溢れた素晴らしい教会でした。それでも、彼らの中に何も問題がなかったかと言うと、そうでもなかったみたいです。実は、今、お読みしたパウロのことばは、当時のピリピの教会にあったある問題を念頭に置いて書かれているようなんです。4章2節に、次のようなことばがあります。

『ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。』

この二人は、その後の3節を見ると分かるように、ご婦人たちのようですが、彼女たちの間には、何らかの不一致、対立があったみたいなんです。ですから、パウロは、主にあって同じ思いとなるように。そして、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください、と勧めているんです。
考えてみれば、教会というところほど、様々な年代、また様々な事情を抱えた人たちが集まっている組織というのも余りないと思います。会社とか、この世の団体の場合には、ある一定の能力や共通の価値観を持った人たちが集められ、そこである一つの目的を目指して働くわけですから、まとまりやすいと思うのですが・・・。まして、信仰の世界というのは、それぞれが、絶対に譲れないこだわりと言いますか、自分の信じるところに拠って立つ世界でもあります。ですから、プロテスタントには、これだけ多くの教派・教団が存在しているわけですが・・・。そして、それ以上に、人間は理屈だけで生きているわけではありません。むしろ感情によって左右される場合が多いのではと思います(好き嫌い)。それを、私は、社会人になってから学ばされたのですが・・・。
それでは、そのような私たちが、心を合わせ、思いを一つにして、ともに歩み続けるためには、どのようにすればよいのでしょうか?

<結論>

そのことについての答えになるかどうかは分かりませんが、最後にある一つのことをお話ししたいと思います。
「手のひらサイズの旅」-長尾契子著-という本の中に、私たちの教団のある牧師のことが紹介されていました。彼は、毎年、ICOMB(アイコム)と呼ばれる、世界のMB教会の集まりに日本代表として参加してきたのですが、そこには、本当に世界中の色々な国にいるMBの仲間たちが集まってくるのだそうです。ドイツ人、コロンビア人、ドイツで働いているカナダ人、アメリカ人、パラグアイ人、ポルトガル人などなど。そこでは、英語はもちろん、スペイン語や、時にはドイツ語まで飛び交うそうですが、そのICOMBで、毎年、彼には胸が詰まるような思いをする瞬間があるのだそうです。それは「洗足式(フットウォッシング)」の時間なんです。お互いに相手の足を洗い合うんです。今日は「聖餐式礼拝」ですが、聖書には、「最後の晩餐」の際に、パンとぶどう酒の食事の後、イエス様が弟子たちの足を洗われたことが記されています(ヨハネ13章)。ですから、カトリック教会などでは、広く行われていることなんですが、彼は、最初、かなり抵抗があったそうです。

「他人の足を洗うなんて、日常では考えられないからね。相手は全然違う国の人だし。僕がさらに抵抗があったのは、自分の足を洗ってもらうことだった。足って人に見せるだけで恥ずかしいんですよ。だけど、恐る恐る素足を差し出してみて、実際に洗ってもらう時、ふと眼頭が熱くなる瞬間が来る。自分でも驚くんだけど。互いの違いは認め合いながら、でもどこか深いところでは一緒だよねっていうのを共有している機会なんだと思います。年に一回の七夕みたいな交わりが、お互いの支えになってる」(「手のひらサイズの旅」より)。

それぞれが歩んできた人生、家族のこと、環境や国の歴史など。一人一人のバックグランドは違っていても、どこか深いところでつながっているという感覚。そのような肌感覚のようなものを、互いの足を洗うという行為を通して感じ合うことができる。何か、とても素敵な話だなと思わされました。
最後に、今日のテキストの2章3節、4節をもう一度お読みして、このメッセージを閉じたいと思います。

『何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい』(ピリピ2:3,4)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF119KB)

新聖歌

開会祈祷後:143番、
メッセージ後:191番

聖書交読

箴言 28章1~10節

2019年教会行事

10月16日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
新バージョン(脳トレ)がスタートしています。

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