愛によって働く信仰 [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、先週の礼拝から、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<コリント人への手紙第1 13章 1~13節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

<ガラテヤ人への手紙 5章6節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>  
「コリント人への手紙第一」からの三回目です。今日の13章は「愛の章」「愛の賛歌」と呼ばれています。パウロは、12~14章で、預言や癒しなどの、キリスト者に与えられるという御霊の賜物について述べます。その理由は、当時のコリント教会に、自分の賜物を人と比べて優越感に浸ったり、特に「異言」という賜物が最上級であると主張する人々がいたからです。今も「異言」を強調する教会はたくさんあります。ある教派では、イエス様を信じた人には聖霊なる神が内住されるという「聖霊のバプテスマ」には、必ず「異言」が伴うとされ、それが一人前のキリスト者である証のように言われたりもするそうです。ですから当時のコリント教会にあったような問題は、2000年経った現在でも続いているわけです。そのように、同じキリスト者であっても「異言」に対する受け止め方は様々ですが、少なくとも、今日の13章で語られていることについては、皆さん「アーメン」なのではないでしょうか。私たちは、皆、同じにはなれなくても、一つになることはできると思います。
今日は、「愛によって働く信仰」と題して、ともにみことばから聴きたいと願っています。

<本論>
1、賜物としての愛

パウロは、13章の1~3節で、異言や預言、あらゆる知識、完全な信仰、自分の持ち物やいのちまでも与えるような善い事を行ったとしても、愛がなければ何の役にも立たない、一切は無に等しいと言っています。そして、4節以降で、その愛の特徴について述べています。ただし、これは私たち人間の愛のことではありません。ギリシア語には日本語で「愛」と訳せることばが4つあります。一つは「エロース」=求める愛。自分にとって愛するに値するものを愛する愛。次に「フィリア」=友情・友愛。そして三つめが「ストルゲー」=母親の子どもに対する愛。そして、最後が「アガペー」=与える愛。一方通行で見返りを求めない愛。ここでパウロが書いているのは、この「アガペー(神の愛)」のことです。4節の最初には『愛は寛容であり』と書かれていますが、この『寛容』というギリシア語は「忍耐」をも表すことばです。ですから、「神の愛は寛容であり、忍耐強い」ということになります。また『愛は親切です』の『親切』というギリシア語も「情け深い」と訳すことができます。ですから、「神の愛は親切で、情け深い」ということです。そして5節。

『礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます』(Ⅰコリント13:5~7)。

これらすべてが、神の愛(アガペー)の特徴ということです。
そして、パウロは次のように言います。

『愛は決して絶えることはありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます』(同13:8)。

最初に申し上げましたように、今、パウロが語ろうとしている問題は『賜物(カリスマ)』についてなんですが、賜物とは、文字通り、神が私たちに与えてくださった贈り物、プレゼントです。それは元々、私たちのものではありませんし、いつかは取り去られ、その役割を終えるものでもあります。しかし、神の愛はそうではありません。愛は決して絶えることはないのです。
ですからパウロは、あなたがたはそのような一時的なものに目を留めて、一喜一憂しているけれども、そんなことをしている場合ではなく、もっと大切なもの、いつまでも残るものに目を注がなければならないのではないか、と言うのです。イエス様は、神の愛(アガペー)について、

『父はご自分の太陽を善人にも悪人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる』(マタイ5:45b)

と教えてくださいましたが、神の愛はそのように、私たちが気づいていてもいなくても、いつも変わることなく私たちに注がれているのです。

2、 信仰、希望、愛

そして、9,10節。

『私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです』(Ⅰコリント10:9,10)。

この完全なものが現れたらとは、どういう意味なのでしょうか?一般的には、私たちの救いが完成する時、つまり、キリストの再臨における終末の希望のことであると理解されています。ただ、神の愛は、既にイエス・キリストという方を通して、私たちに示されました。そして、私たちは、既にその愛を受け入れた者たちです。ですからパウロは次の11節で言います。もはや幼子のようにではなく、大人として歩めと。幼子は、大人から見ると「なんであんなものを欲しがるんやろ?」と思うような、つまらないもの、価値のないものを欲しがります。しかし、大人はそうではありません。

14章1節に『愛を追い求めなさい』

とありますが、『愛』という真に価値のあるものを追い求めるのが大人なのではないでしょうか。確かに私たちは、12節にあるように、今はまだ本当に一部分しか、ぼんやりとしか見えていないような、そんな者だと思い
ます。しかし、神の愛を追い求める、追い求め続けることはできます。そのような者でありたいと切に願います。
そして、最後の13節。

『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』(Ⅰコリント13:13)。

長い間、私は、このみことばを読んで、素晴らしいなぁ、いいみことばだなぁ、と思っても、何か倫理的な勧めのように受け止めていたような気がします。キリスト者というのは、信仰、希望、愛を大切にして、その中でも、愛を第一として生きていかなければならない。つまり、愛とは語るものではなく、行いこそ、愛の業、愛の実践こそが大事なんだということですね。確かに、「ヤコブの手紙」には、

『信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです』(ヤコブ2:17b)

と書かれています。しかし、今日の箇所でパウロが言いたかったことは、そういうことではなかったんじゃないかと、今は思っています。それは、私たちの信仰や希望を支えているもの、言わば土台と言えるもの、それが神の愛なんだということです。私たちの信仰も、希望も、神の愛という土台がなければ、そんな信仰や希望は全く意味がない。言い換えれば、神の愛を動機としない行いは、それが外面的にどれだけ立派な行いに見えたとしても、全く意味はないということです。パウロが今日の所で強調していることは、そういうことではないでしょうか。

<結論>

今日の開会聖句とさせていただいた「ガラテヤ人への手紙」5章6節は、最後の13節にある『愛』ということばの引照箇所として下に紹介されていました。

『キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです』(ガラテヤ5:6)。

ガラテヤ教会というのはコリント教会とは本当に対照的です。割礼を受けること、つまり旧約聖書に書かれてある律法を守ることがキリスト者にとっての一丁目一番地、すべてであると教えられていました。「割礼」というのは、創世記17章にあるように、神さまとイスラエルとの契約のしるしとして、男性の性器の包皮を切開、もしくは切り取ることです。しかし、神のひとり子であるイエス様が救い主として来てくださり、十字架に架けられ、救いの道を完成してくだった今となっては、もはや、そのような律法を守る意味がなくなってしまったのです。そして、この『愛によって働く信仰』の愛も、やっぱり私たち人間の愛のことではありません。イエス・キリストの十字架の愛、神の愛のことです。聖書は決して、人間の理想の愛とはこうなんだとか、愛は実践が伴わなければだめだ、ということを言っているのではなく、私たちキリスト者にとって本当に大事なことは、神の愛に気づき、その中に生かされることであり、いつもそこから出発することなんだということだと思います。今日も、神の愛から出発しましょう!

メッセージ内容のダウンロード(PDF88KB)

新聖歌

開会祈祷後:9番、メッセージ後:515番

聖書交読

詩編 26篇1~12節

2020年教会行事

6月24日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
いよいよ7月1日(水)から再開いたします!今しばらくお待ちください。

#52-2716


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