平和をつくる者

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ガラテヤ人への手紙 5章1、13節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

    <マタイの福音書 5章9節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:12/10 PM 7:48


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・しばらく「ヨブ」からお話ししてきましたが、一旦お休みということで、もしかしたら、そのまま終了ということになるかもしれません。今回は「平和をつくる者」と題して、新約の「ガラテヤ」からお話しします。

    <本論>
    1.自由がもたらす副作用

    今、ちょうど、NHKの朝の連続テレビ小説「ブギウギ」では、先の戦争の時代に、いかにして自由が奪われていったかということが描かれていますが、平和がなくなる時、自由もなくなるんですね。そして、その逆も真なりと言えるのではないでしょうか。ですから、平和と自由とは、互いに分かちがたい、密接に結びついたものだと言えるでしょう。そして、平和というと、今、お話ししたような、戦争のない状態、そんな国同士の関係をイメージされるかもしれませんが、イエス様が教えてくださった平和とは、神と人との平和、そして、人と人との平和なんですね。それが、非戦というか、MBが掲げている「平和主義」でもあるわけです。ただ、自由ということを考えた時、それは本当に素晴らしい、失われてはならないものなんですけれども、実は、その自由がもたらす副作用というものがあるんです。言い換えれば、私たちが自由であることと引き換えに引き受けなければならないもの。それは孤独とか不安なんです。そのことを指摘したのが、エーリッヒ・フロムという人です。彼はドイツ出身のユダヤ人で、社会心理学者なんですが、1941年に「自由からの逃走」という本を出しました。その中で、私たち人間は、所謂、中世と呼ばれる時代までは、様々な形で社会の組織に否応なく組み込まれ、自由ではなかったけれども孤独でもなかった。しかし、近代になって、それまでの領主と領民という関係や、ギルド(同業者組合)のようなつながりから自由になることで、孤独や不安というものを引き受けなければならなくなった、と述べているんです。フロムは、その頃、ナチスから逃れてアメリカに亡命していたんですが、祖国ドイツの人々が、なぜナチスに取り込まれていったのかということについて、それは、ドイツの人たちが近代における自由がもたらす孤独と不安とに耐えきれずに、何者かに依存したい、それで安心を得たいと考えたことが、その要因だと指摘してるんですね。今、お話ししたことは、社会心理学的な分析で、とても大きな話なんですが、実は、私たちの身近なところにもそんな話はあるんです。先日、石橋教会で教団協議会が行われ、その中で、今年度、定年を迎える三人の牧師たちへの感謝の時が持たれました。私は、その様子を見ながら、来年は自分の番だなぁということを思わされたんですが、それと同時に、若い頃は考えたこともなかった定年退職者の孤独ということも思わされました。

    2.二つの自由

    さて、今、ご紹介したエーリッヒ・フロムは、その「自由からの逃走」という本の中で、自由というものを二つに分けて論じています。それは、①「~からの自由」=消極的自由 ②「~への自由」=積極的自由です。それは、今朝のみことばで言えば、①は5章1節。つまり、律法からの自由ということになるでしょう。そして、②は13節。つまり、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって仕え合いなさい、ということになるかと思います。
    この「ガラテヤ」が書かれた背景には、当時のガラテヤ教会に、以前の古いユダヤ主義や律法的な教えを説くユダヤ人クリスチャンたちがいたということがあったんですね。彼らは、異邦人も、救われるためには、自分たちと同じように割礼を受けなければならない、と教えたんです。しかし、それに対してパウロは次のように反論しています。

    『しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです』(ガラテヤ2:16)。

    かつては、パリサイ人の中のパリサイ人と呼ばれ、最もユダヤの伝統を大切にしてきたパウロでしたが、今は百八十度変わってしまったのです。ただ、そんなパウロも、決して律法自体が悪いものだ(悪いものだった)とは言っていないんです。そもそも、イエス様もそうでした。

    『わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです』(マタイ5:17)。以下はパウロのことばです。
    『律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです』(ローマ10:4)。
    「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」(ガラテヤ3:24)。

    ですから、イエス様が来られる迄の旧約の時代には、律法を守ることに意味はあったかもしれないけれども、イエス様が来られた新約の時代においては、それは過去のものとなった、ということですね。

    3.律法ののろい
    そして、パウロは、今朝の手紙の中で、そのことについて、「のろい」という、実に強烈なことばを使って説明します。

    『律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです』(ガラテヤ3:10)。
    『キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです』(同3:13)。

    パウロは、キリストは十字架に架けられ、私たちのためにのろわれた者となることによって、律法のすべてを守り行わなければのろわれるという「律法ののろい」から私たちを解放してくださったのだ、と言ってるのです。それは裏を返せば、当時のユダヤ人が、選ばれた民族であるにも関わらず、神ではなくて律法に依存するようになり、律法の奴隷のような状態に陥っていたということではないでしょうか。パリサイ人は、自分たちこそ、他の誰よりも律法を忠実に守っていると誇っていましたが、「木を見て森を見ず」と言うか、どうでもいいような枝葉末節なことにこだわって、一番肝心な律法の精神(イエス様が言われた二つの戒め)というものを忘れてしまっていたわけです。今、依存ということばを使いましたが、依存と依存症は違います。良い依存の典型は、お母さんとお赤ちゃんの関係で、それは成長とともに自立へとつながるのですが(律法はキリストに導く養育係)、悪い依存の典型は、大人になっても親の子離れ、或いは、子の親離れができないというようなことでしょうか。それは、相手の自立や自由を認めないという関係性ですね。

    <結論>
    「ルカ」15章に有名な「放蕩息子のたとえ」があります。イエス様が、当時、罪人と見なされ、差別されていた取税人たちとともに食事をしておられるのを見て、パリサイ人や律法学者たちが文句を言ってくるんですが、そんな彼らに対して話された三つのたとえの中の最後のたとえです。私たちは「放蕩息子」と聞くと、どうしても弟息子のことを、父親に無理に願って分けてもらった財産で放蕩の限りを尽くし、ボロボロになって帰って来た弟息子のことを思い浮かべてしまうんですが、実はそうじゃなかったんです。父親とともにいて、言いつけを守り、真面目に暮らしていた兄息子も、同じく「放蕩息子」だったんです。いや、弟息子は、少なくとも自分のことを「放蕩息子」だと自覚していたと思いますが、兄息子にはその自覚がなかった分だけ、より深刻と言うか、たちが悪かったと言えるでしょう。父親は、ボロボロになって帰って来た弟息子を、遠くから見つけて、駆け寄って彼を抱き、口づけをして言います。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。しかし、そのことを知った兄息子は、怒って、家に入ろうともせず、父に激しく詰め寄ります。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」。これが兄息子の本心でした、それは、言い換えれば、自分が今まで父の言いつけを堅く守って仕えてきたのは、父への尊敬や愛からではなく、ただ財産を分けてもらうためであったということです。兄息子は、父の側近くにいたのに、その心は遠く離れてしまっていたのです。
    しかし、父の愛は取引のような愛ではなく、相手に報いを求めない愛でした。だから、二人の息子に強制したり、無理強いしたりせず、拒否する自由を与え、ただ、じっと弟息子が帰って来ることを願い、兄息子が気づくことを願い、ひたすら相手の自発的な応答を待ち続けたのです。それを、ある方は、「神聖な苦しみの源としての神聖な愛が持つ広さである」と表現しておられました。この父親の姿こそ、父なる神様の姿です。そして、今朝の「ガラテヤ」5章13節のみことばにあったように、父なる神様は、私たちが、ただ自由な者であるだけでなく、自由に愛する者であるようにと願っておられるのです。相手に何かを無理強いしたり、支配しようとする関係から、平和な関係というのは決して生まれてこないのです。

    「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF110KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:81番、メッセージ後:87番

    聖書交読

    詩編33篇 1~11節

    2023年教会行事

    12月13日(水)  オリーブいきいき百歳体操 10~11時

    #55-2898

Comments are closed