イエス・キリストの黙示

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ヨハネの黙示録 2章1~7節>
牧師:砂山 智

開会聖句

イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。

<ヨハネの黙示録 1章1節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
「ヨハネの黙示録」は新約聖書の最後を飾る書簡ですが、その解釈を巡ってはもちろん、そもそも新約聖書の正典に入れるべきかどうかについても多くの議論があった曰くつきの書簡です。伝統的立場では、著者は1章1節に名前のある使徒ヨハネで、彼が9節にあるように、パトモスという島に流されていた時に見た啓示をもとに書いたとされています。「黙示」というのはギリシア語の「アポカリュプシス」の訳で、「明かす・明らかにする」という意味の動詞から来たことばです。英語では、「Revelation」と言いますが、それはギリシア語と同じ意味のラテン語「rev.l.ti.」(暴露、すっぱ抜き)に由来しています。
本書は、所謂「黙示文学」の形式で書かれていますので、新約の他の書簡とは異なり、象徴的表現が多く用いられています。その内、例えば1章20節などには説明がありますが、それ以外のほとんどは説明がないので、読者自身が解釈することになります。本書の解釈は概ね四つの立場に分けられます。
①過去主義―本書の預言は初代教会の歴史によって成就されたと考える。
②歴史主義―本書はヨハネの時代から歴史の終末までをパノラマ的に描いていると考える。
③精神主義―実際の出来事についてではなく、キリスト教が悪の勢力と戦わなければならないという、霊的原則を述べていると考える。
④未来主義―本書の大部分(4~22章)は未来に属する預言であると考える。
いずれの立場が正しいのか、はっきり言って分かりませんが、ただ、間違いなく言えることは、本書が書かれた背景には、当時のローマ帝国による厳しい迫害があったということです。だいたい黙示文学などが著される時代というのは、なんでも自由に語ったり、言いたいことをストレートに表現することができない時代と言えます。従って、それは圧政、弾圧、迫害の時代ということになるわけです。そして、そんな時代背景の下に書かれた本書の目的は何かというと、迫害に苦しむ信徒たちを励まし、後に起こることを示して、イエス・キリストの再臨を信仰と忍耐をもって待ち望むように勧めることでした。そして、その意味において、本書は現代に生きる私たちにとっても大切な書だと言えると思います。

<本論>
1.七つの教会

今朝の2章の一つ前、1章10~11節には次のように書かれています。

『私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」』(黙1:10~11)。

聖書で七というのは完全数ですが、「黙示録」は、小アジア(現在のトルコ)と呼ばれる地域にあった七つの教会に宛てて書かれた巻物(手紙)という形式をとっています。ただ、必ずしも宛先をこれら七つの教会に限定する必要はなく、むしろ、これらの教会によって代表されるすべての教会に宛てて書かれたと考えるべきでしょう。そして、ヨハネはこの後、声の主を見ようとして振り返ります。そこで彼が目にしたのは、七つの金の燭台の間に立っておられた

「人の子のような方」(同1:13)、

つまり主イエス・キリストでした。主はヨハネに次のように言われます。17節後半。

『「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である』(同1:17b~20)。

2. あなたは初めの愛から離れてしまった

その最初がエペソ教会でした。あの「エペソ人への手紙」の宛先の教会です。なぜエペソが最初の教会に選ばれたのかは分かりませんが、「日々のみことば」の著者の方も書いているように、エペソは七つの教会の中でヨハネのいるパトモス島から最も近くにあり、小アジアの政治・経済の中心地として栄え、あのパウロも2年以上滞在し、福音を宣べ伝えた町でした。そして、これは伝承ですが、ヨハネもパトモス島から釈放された後、晩年をエペソで過ごし、そこで死んだと伝わっています。
さて、そのエペソ教会に書き送れと言われた手紙の内容ですが、最初の2~3節のことばはエペソの人たちにとって大きな慰めになったでしょう。イエス様が、あなたの労苦と忍耐をよく知っている。あなたはよく忍耐し、疲れ果てなかったと言ってくださったのですから。「自分の苦労を知ってくれている人がいる。それも、あのイエス様が」。そんなことを考えていたら、大昔に読んだ松本零士の「男おいどん」という漫画の一場面がよみがえって来ました。笑いとペーソスに溢れた作品なんですが、主人公の大山昇太が、汚い下宿の部屋で、一人、悔し涙を流しながら祈るんです。「神も仏もあるもんかとは思うばってん、もしいらっしゃるなら、天地・宇宙・万物を司る神サマ。おいどん男ばい!幸せにして下さいとも助けて下さいとも死んでも頼みません。おいどんはおいどんのやり方で頑張るけん、見ていて下さい」。私は、今でも覚えているその場面を読んで、何とも言えないような切ない気持ちになったのですが、ただ、私たちには、いつも変わらぬ愛で愛してくださるイエス様がおられます。そのことを決して忘れずに祈りたいですね。
そして、4節。それまでとは一転して、非難・叱責のことばです。

『けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった』(黙2:4)。

この「あなたは初めの愛から離れてしまった」ということばには、どんな意味が込められているのでしょうかか?ある信仰書を読んでいましたら、二つの意味があるのではないかと書かれていました。一つは、初めて教会へ行き、信じて洗礼を受けたころの初々しさを忘れ、いつの間にか教会の主のようになってしまうこと。もう一つは、私たちが愛するとか、愛されるとかいうことの元の愛、すなわちイエス様の愛、イエス様によって示された神の愛から離れてしまうことではないかと。いかがでしょうか?信仰生活も長くなってくると、だんだん、そのことがぼやけてきて、人間同士の交わりとか、人間的な忖度が第一になってはいないでしょうか?最近、つくづく思うのは、私たちの世界、人間関係というのは、どこまでいっても取引の世界。あの大統領のことばで言うなら「ディール」の世界だということです。先週、田中師が紹介してくれたヘンリ・ナウエンのことばにもそんなことが書かれていましたが、私の、そして、あなたの信仰は神の愛だけに根ざしたものでしょうか?神の小さな愛の声が、この世の声でかき消されてしまい、聴こえなくなってはいないでしょうか?初めの愛とは、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という小さな声から始まる愛です。その小さな声を聴き分け、耳を傾けることこそが祈りなんですね。

<結論>

最後に、7節をご覧ください。

『耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』』(黙2:7)。

今の私たちには、いのちの木がどんな木で、パラダイスがどんなところかということは分かりませんが、そこにはイエス様がおられます。そこがどんなに美しい天国のようなところであったとしても、イエス様がおられなければ、そこはパラダイスではありません。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF106KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌143番、メッセージ後:新聖歌148番

聖書交読

詩編130篇 1~8節

2025年教会行事


7月9日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2980

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