なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨハネの黙示録 8章1~13節>
牧師:砂山 智
開会聖句
ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
<マタイの福音書 24章42節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開をいましばらくお待ちください。
メッセージ原稿を公開しました。
・「ヨハネの黙示録」からの二回目です。本書は4章から本論に入ります。
『その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」』(黙4:1)。
先週の礼拝後の「地図で学ぶ聖書の歴史」の学び会で、ちょっと「あれ?」と思ったのですが、それは、その本が、「黙示録」3章で実質的に終わっていて、その後は、「キリスト教の広がり」(紀元33~337年)という補足みたいな内容になっていたからです。一瞬、「4章以降は無視か(避けたのか)?」と思ったのですが、よく考えてみたら、その本のタイトルは「聖書の歴史」で、4章以降は、先程、『この後必ず起こること』とあったように、言わば聖書の歴史より後に起こることですので、取り上げなかったのでしょう。そして、もう一つ気づいたことは、「この後」というのは、ヨハネがこの「黙示録」を著した時から後ということであって、今、私たちが生きている時代から後ということではないということです。ですから、もう既に、その時から数えて2000年という時が経過していることになります。ということで、「黙示録」には、先週お話ししたように、①過去主義 ②歴史主義 ③精神主義 ④未来主義 と様々な解釈があるわけですが、それを神学的には「終末論(エスカトロジー)」と呼びます。
<本論>
1.二十四人の長老たちと四つの生き物
さて、先程の4章で、まずヨハネに啓示されたのは、天における神の栄光とそれを賛美する情景でした。そこに二十四人の長老たちと四つの生き物が登場します。
『また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた』(黙4:4)。
金の冠は最高の栄誉の徴であり、神とともに世界の支配者として君臨する王的権威の象徴です。一方で、二十四という数には様々な解釈があります。カルデア(イラン)宗教における二十四神。或いは、イスラエルの十二部族及び新約の十二使徒、つまり旧いイスラエルと新しいイスラエルの代表を合わせた数。はたまた、二十四組の神殿聖歌隊などと関連しているのではという解釈など。
そして、6節。
『御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた』(同4:6)。
次の7節には、その四つの生き物は獅子、雄牛、人間、鷲のようであったとありますが、これらは、一般的に、旧約の「エゼキエル」に登場する半神半獣のケルビム(天使)のことと考えられています。その多くの目は、すべてを見通す力を意味し、獅子とか雄牛というのは、全被造物の中で最も力強い生き物を表します。それゆえ、その四つの生き物とは、自然界とその現象を支配する四人の天使と解することができるでしょう。
2. 七つの封印で封じられた巻物
そして、次の5章では、七つの封印で封じられた巻物が示されます。ヨハネは、この世界のどこにもそれを開くことができる者はいない、と激しく泣くのですが、そのヨハネに向かって長老の一人が告げます。
『すると長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった』(黙5:5~6)。
このユダ族から出た獅子、ダビデの根、屠られた子羊と呼ばれている方は、もちろんイエス・キリストを表しています。そして、この後、キリストが七つの封印を解いていかれます。その時、ヨハネが見たのは、この後必ず起こること、患難時代の幕開けとも言える七つのわざわいでした。
3. 三分の一
それが6章以降で順番に明らかとなるのですが、その最後の第七の封印が解かれた場面が今朝の8章です。
この8章の1節に、
『子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった』
とありました。この静けさは何を意味しているのでしょうか?ある註解書には、この静けさ(沈黙)とは、旧約では、神の臨在、神の救済的介入、或いは終末的審判の日の到来の徴である、と説明されていました。そして、その短い静けさの後、七人の御使いたちに七つのラッパが与えられます。その後の3~5節は挿入文のようですが、別の御使いが金の香炉を持ち、たくさんの香に聖徒たちの祈りを添え、御座にある金の祭壇に献げた後、香炉をその祭壇の火で満たして地に投げつけます。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こったと記されていました。祭壇の火とはさばきの火の象徴であり、「エゼキエル」10章でも、エルサレムの滅亡を象徴する行為として、炭火が都の上にまき散らされる様子が描かれています。そして、その後に起こる七つのラッパのわざわいは、やはり旧約の「出エジプト」で、モーセによってエジプトに下されたわざわいを想起させます。その中で特に心に残ったのは三分の一ということです。三分の一が焼かれ、死に、暗くなり、そして三分の一が残されたという。それは神様の審判の目的を表しているのではないでしょうか。あの「創世記」のノアの物語でもそうでしたが、神様は決して我々すべてを滅ぼすためにさばかれる方ではないのです。本来は、さばかれ、滅ぼされるべき私たちを救うために、御子イエスを遣わし、あの十字架の上で殺してくださった。それは、私たちの信仰や、祈りや、清さによるのではなく、ただ神の側の一方的な恵みです。だから、私たちの祈りは、その恵み深い神に祈るのであり、自分の祈りの力でとか、たくさんの人に祈ってもらったから願いがかなえられた、と勘違いしてはならないのです。
<結論>
最後に、今朝の11節に「苦よもぎ」というものが出てきます。これを、あのチェルノービリ(チェルノブイリ)原発事故を預言したものととる方もおられるようです。それは、チェルノービリが「苦よもぎ」という意味だからというのですが、ただ、チェルノービリの直訳は「苦よもぎ」ではなく、「黒い草(茎)」だそうです。「黙示録」の解釈には様々な立場があるということは既にお話ししましたが、その中には、この書を、まるで「ノストラダムスの大予言」や「私が見た未来」のように読む方もおられるのでしょう。けれども、イエス様は、今朝の開会聖句にあったように、
「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから」
と言われました。「目を覚ましていなさい」とは、主が来られる日を、今か、今かと待つことではなく、ああだこうだと推測することでもなく、それぞれが遣わされた場所で地に足をつけ、主の業に励むことではないでしょうか、最後に、まさにそのように生きて亡くなられた、中村哲さんという方が遺したことばを読んで、終わりにしたいと思います。
「国土をかえりみぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ―終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか」。ii 「中村哲 思索と行動」下P443 ペシャワール会発行
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌444番、メッセージ後:新聖歌464番
聖書交読
詩編131篇 1~3節
2025年教会行事
7月16日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#57-2981
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