主イエスの恵みがともにありますように

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ヨハネの黙示録 21章22~22章5節>
牧師:砂山 智

開会聖句

主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

<ヨハネの黙示録 22章21節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:8/6 PM 9:19
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「ヨハネの黙示録」からの三回目で最終回です。前回は8章の第七の封印が解かれた場面からお話ししました。その後も、終末の時代に起きるさばきの幻が次から次へとヨハネに啓示されます。昔、子どもの頃に見た、「ウルトラQ」や「ウルトラマン」に登場したような異形の生き物(怪獣)たちが次々と姿を現します。その極めつけというか、ラスボスとも言えるのが、17章に登場する大淫婦、或いは大バビロンと呼ばれる女です。17章1節。

『また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」』(黙17:1~2)。

<本論>
1.最後の審判へ

この一つ前の16章には、ハルマゲドン(メギドの山)と呼ばれる場所が出てきます。それはイズレエル平原の西の端にあり、パレスチナの内陸からフェニキアに行く道と、エジプトからシリアを経てエジプトへ行く道の交差地点にある、軍事上・交易上、重要な町で、古くから大きな戦いが繰り返されてきました。そのメギドに、汚れた霊どもによって全世界の王たちが集められます。再臨のキリストとその王たちとの戦いは、少し後の19章後半に描かれていますが、その前に先程の大淫婦へのさばきがあります。この大淫婦が、一体、何を表しているのか?ヨハネに示された啓示では、当時のローマ帝国を象徴的に表したものだろうと考えられています。しかし、例えば、後の宗教改革の時代には、それはローマ・カトリック教会を表しているとされたり、その時代、その時代で、解釈は変わってきました。ですから、これも、ある特定の国や組織と断定することは難しく、過去にも大淫婦のような存在はいたし、これからも繰り返し現れるだろう。否、もっと言えば、そのようなものを生み出す人間の悪そのものを表しているように思えます。一般的な解釈では、反キリストを指導者とする国家やこの世の政治権力にすり寄る偽りの宗教(カルト)のようなものとされていますが、それは最終的に、17章16節にあるように、十本の角と獣によって、これは反キリストの国家や政治権力を表すと考えられていますが、そのような勢力によって滅ぼされてしまうのです。そして、19章のハルマゲドンの戦いを経て、20章で千年王国が来る。来るというのは、この地上に来るという意味です。千年王国とは、竜、すなわち、悪魔による災いが、悪魔が閉じ込められることによって、千年の間、封印されることに、そのいわれがあります。しかし、

『その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる』(黙20:3b)。

これが、所謂「最後の審判」と呼ばれている最後の戦いの始まりなんですが、このことは、悪の力はそんなに簡単に無くなるものではないということを示しているように思えます。御使いでさえも、それをいつまでも封じ込めておくことはできなかったわけで、まして私たち人間の知恵や力で封じ込めてしまうことはできない。もちろん、だからといって、悪の力を認めるとか、或いは、その悪の側に立つということは、全くありえない話なんですが、神のみが、悪魔を、或いは悪の力を滅ぼすことができる、ということを改めて覚えたいですね。だから、私たち、聖書の約束に立つ者は、この世の悪に対していちいちヒステリックになる必要はないと思うんです。必ず世の終わりが来て、最後には神が勝利される。今はまだ夜は明けていないけれども、既に夜明けの星は輝いているのだから、その神による勝利を先取りして、この世の悪に対してゆく。私たちにできることは本当に小さなことにしか過ぎないかもしれませんが、前回もお話ししたように、イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。それは、それぞれが、今、置かれている所で主の業に励むこと。それが、終末における私たちの生き方だと思うんですね。20章8節には、『ゴグとマゴグ』というのが出てきますが、これは反キリストの地上の民一般を指すものと考えられています。そのゴグとマゴグが一致団結して、人間の力、悪の力を結集してキリストとその軍勢に最後の戦いを挑んできますが、

『すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした』(同20:9b)。

これが、ヨハネに示された最後の審判だったのです。

2. 聖なる都エルサレム

そして、21章冒頭で新しい天と地が現れ、その後、聖なる都、新しいエルサレムが天から降って来ます。今朝、読んでいただいた箇所には、その聖なる都エルサレムの様子が描かれていました。それを一言で表現するならば「完全だ」ということだと思います。私たち人間はどれだけ頑張っても完全になることはできませんが、神のなさることは完全だということです。それが、その都が最高の宝石や純金で造られているということで表現されています。今朝の箇所の冒頭の21章22節には、

『私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである』

とありましたが、これは、「へブル」で言われている影の世界、不完全な世界から、本物の世界、完全な世界へと私たちが移されることを意味していると言えるでしょう。パウロは、

『あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか』(Ⅰコリ3:16)

と言いましたが、今の私たちは不完全ですから、やがて来るべき完全な世界がどのような世界なのか。それを具体的に想像することは難しいのですが、今、私たちのうちに住んでおられる神の御霊によって、そのほんのわずかであっても、味わうことができるんだよ、とパウロは言っているのではないでしょうか。

『もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める』(黙22:5)。

この世においては、私たちはいつも光を求めます。それは、ある人にとってはお金であったり、地位であったり、名誉であったり、或いは、人から認められたいとか。しかし、イエス様が再び来られた時には、そういうものがすべて必要で無くなるということです。「もはや夜がない」というのは、そういうことですね。そのようなものに自分が縛られていたり、支配されているというか、それらが第一となっている間は、その人にはまだ夜であり、これらの不安から解放されていないのであって、神である主が自分を照らしてくださるという世界に生かされていないということでしょう。だから、私たちにとって、そういうものにどれだけ頼っているか、そういうものをどれだけ大事にしているかということが、一つのバロメーターになるんですね。いくら口で立派なことを言ったとしても、そういうものから解放されていなければ、神の光がその人を照らしていないということだと思います。ただ、それは、イエス様の十字架によってのみ成しうることであって、自らの信仰や祈りの力によってできることではありません。だから、私たちには、キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならないのですね。

<結論>

「黙示録」からのメッセージを終えるにあたり、「このみことばは、この幻は、こうだ!」と明確に言えないことばかりだったかもしれませんが、それは、イエス様がペテロに

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」(ヨハ13:7b)

「今、知らず、後、知るべし」と言われたように、イエス様にお委ねするとして、最後に、今回のメッセージの準備をしていて、一番、心に残ったカール・バルトという神学者のことばをご紹介して終わりたいと思います。バルトはスイス人ですが、あのナチスが台頭した時代に「危機神学」という神学をもって抵抗した人です。

「終末が遅延しているのではなく、終末はすでに神によってもたらされている。むしろ、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである。」
『主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように』(黙22:21)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF101KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌70番、メッセージ後:新聖歌148番

聖書交読

詩編134篇 1~3節

2025年教会行事


8月6日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2984

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