すべてを行う神

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<エズラ記 1章1~11節>
牧師:砂山 智

開会聖句

わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。

<イザヤ書 45章7節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:10/19 AM 1:37
 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・本書は、元々、ヘブル語原典では次の「ネヘミヤ」と合わさって一つの書物だったそうです。それが今のように分かれたのは15世紀(宗教改革以降)になってからのことだと言われています。内容は、前半の6章までがバビロン捕囚からの帰還と神殿の再建について。そして、後半の7章以降はエズラの帰国と彼が行った改革についてです。本書の名前となったエズラは祭司であり、7章6節では

『モーセの律法に通じている学者であった』

と紹介されています。それは彼が行った改革がモーセの律法に基づく改革であったということを示していると言えるでしょう。

<本論>
1.主はキュロスの霊を奮い立たせ

1節冒頭の

『ペルシアの王キュロスの第一年』

というのは、年代で言うと紀元前538年のことになります。キュロスがペルシアの王になったのは、その19年前の紀元前557年ですが、先程の「第一年」とは、ペルシアの王になった第一年のことではないんです。キュロスは、伝承によると、紀元前576年ごろ、ペルシアの王子として生まれたようですが、その当時のペルシアは小国で、メディアという大きな国の属国でした。しかし、彼は相当なやり手と言うか、野心家だったのでしょう。宗主国のメディアを滅ぼし、遂には古代オリエントの覇者であった新バビロニアをも滅ぼし、紀元前539年10月29日にバビロンに入城し、自らを「諸王の王(キング・オブ・キングス)」と称して、自分の王朝アケメネス朝を打ち建てます。そして、その翌年、今朝の1節の年ですが、紀元前538年に、所謂「キュロスの勅令」というものを発して、バビロン捕囚にあったユダヤ人や同じように強制移住させられていた諸国の民を解放するんです。キュロスは自分が征服した国の人々を寛大に取り扱うという、所謂、宗教寛容政策を採ったことで知られています。それが今朝の1節、そして4節までに書かれていたことなんですが、2節以降の『』で括られた部分は、キュロスの帰還許可の勅令をユダヤ人向けに書き直したものだと考えられています。
そして、

『エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた』

とありましたが、主はかつてエレミヤに告げられた預言。「エレミヤ」25章、或いは29章10節の

『まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる』

という約束を、異教の神々をも崇拝するペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせることによって成就されたわけです。本当に不思議なのですが、聖書の神様はユダヤ人だけの神ではなく、ご自分を信じるか信じないかに関係なく、すべての人間にとってただ一人の真の神であるということを改めて思わされます。そして、その真の神は、私たち人間の霊を奮い立たせることによって、言い替えれば、人間に志を与えることによって、ご自身のみこころを行われる方なんです。

『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです』(ピリ2:13)。

それは今の私たちも、キュロスとはだいぶんスケールは違いますが、同じだと思うんですね。自分も定年の年齢を過ぎて、ここでご奉仕できるのもそんなに長くはないと思いますが、たとえ、いくつになっても、元気であれば元気なように、そうでなければそれなりに、神様はその時々に応じて志を与えてくださる方だと思うんですね。昔、「青年は荒野を目指す」という歌がありましたが、いくつになってもそんな風に歩めたら素晴らしいですね。

2. 主の山には備えがある

そして、5節。そのキュロスからの勅令に応えて、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。それは、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである、とありました。さらに6節。

『彼らの周りの人々はみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけた』(エズ1:6)。

神が奮い立たさせてくださった霊、志は、その人だけにとどまることなく、人から人へと伝わり、良い意味で周りの人たちを巻き込んでゆくということでしょう。
7節以降には、かつてバビロニアの王ネブカドネツァルがエルサレムの神殿、主の宮から持ち出して、自分の神々の宮に置いていた器を、キュロスが命じて運び出させたことが記されていました。バビロン捕囚から数えて70年が経っていますので、ユダの首長シェシュバツァルを始め、帰還する人々は、それらの器、宝物と言っていいと思いますが、それらの物を初めて目にして大いに驚き、そして、喜んだことでしょう。それは帰還する人々を励まし、勇気づけるために神様が用意してくださったものだったように思えます。私たちも、すべてを失ってしまったように思える時があったとしても、神は必ずご自分の民のために備えていてくださるということではないでしょうか。まさに、

「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」(創世22:14)。

<結論>

そして最後に、今朝の箇所で言及されていたエレミヤの預言のさらに前。この時から数えて160年ほど前になされたイザヤの預言も見ておきたいと思います。今朝の開会聖句の少し前の「イザヤ」44章28節をご覧ください。

『キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う』(イザ44:28)。

ここにキュロスの名前が出てきますが、彼は「わたしの牧者」と呼ばれています。さらに、次の45章1節では

『油注がれた者』

とも呼ばれていますが、それは、神から命じられた特別な働きを行う者という意味です。そして、45章4節には、

『わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために』

とあり、

『あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える』(同45:4)

と言われています。確かにキュロスは、イスラエルの民のために特別な働きをしました。しかし、先程も申し上げましたように、彼自身は主だけを神として信仰したわけではなく、主がどのような方であるかを知ることもなかったのです。イザヤは次のような神のことばも告げています。今朝の開会聖句です。

『わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者』(同45:7)。

これは、この歴史を動かしているのは、キュロスのような権力者ではなく、トランプでも習近平でもプーチンでもない。主お一人だということですね。私たち人間には、光も闇も平和もわざわいも創造すると言われる方のみこころのすべてを知ることはできません。しかし、聖書が証言している最も大切なことは、その方は、私たち人間に良いことをしてくださったということです。それは、私たちを罪による捕囚から解放するために、ご自身のひとり子であるイエス様を救い主として遣わしてくださったということです。
今週も、この「良い方」だけを信頼して、歩んで行きましょう。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF93KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌7番、メッセージ後:新聖歌284番

聖書交読

詩編147篇 1~11節

2025年教会行事


11月5日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2997

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