選びと救い

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<エズラ記 9章1~10節>
牧師:砂山 智

開会聖句

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

<ローマ人への手紙 10章12節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「エズラ」からの二回目です。本書は「エズラ」と呼ばれていますが、そのエズラが登場するのは後半の7章になってからです。そして、6章から7章の間には、約60年の開きがあります。その間、ペルシアの王も、キュロスからダレイオス、クセルクセス、さらにアルタクセルクセスへと代わります。

『アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエル人の一部、および祭司、レビ人、歌い手、門衛、宮のしもべの一部が、エルサレムに上って来た。エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発した。彼の神の恵みの御手は確かに彼の上にあり、第五の月の一日に、彼はエルサレムに着いた。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心に定めていた』(エズ7:7~10)

<本論>
1.エズラが派遣された目的

今、お読みした箇所の最後に、エズラがエルサレムに来た目的と言うか、その時の彼の決心が述べられていました。少し後の12節以降にも、この時、ペルシア王がエズラを派遣した目的が書かれています。

『王の王アルタクセルクセス。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。中略。さて、私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたと一緒に行ってよい。なぜなら、あなたは王とその七人の顧問によって遣わされているからである。それは、あなたの手にあるあなたの神の律法にしたがって、ユダとエルサレムを調査するためである』(エズラ記 7:12~14)。

アルタクセルクセス王の命令はこの後も続きますが、要するに、王がエズラを派遣した目的は、ユダとエルサレムの宗教を調査するためということでした。ただ、宗教の調査と言っても、今とはかなり事情が違います。それは、当時の政(まつりごと)は宗教と密接不可分と言いますか、宗教を調べるということは、すなわち、その国の政治、国の状態を調べることでもあったからです。(まつりごと→祭政一致・政治的指導者が同時に宗教的指導者を兼ねていた)。エルサレムに神殿が再建されてから既に60年が経過し、人々の暮らしぶり、国情はどのようになっているのか。それは、宗主国であったペルシアの王にとっても大きな関心事だったのでしょう。

2. エズラたちの帰還

そして、続く8章前半には、この時、エズラと一緒にエルサレムに帰還した人々が、氏族ごとに、人数まで記されています。2章前半にも第一回目の帰還民のリストがあり、それと比較すると、その氏族名や人数にかなりの違いがあるという事が分かります。特に8章では、レビ人が集まらなかったことが記されています(エズ8:15~)。そこでエズラはかしら(リーダー)たちを遣わしてレビ人を集めます。そんなこんなの苦労の末、ようやく集められた人々とともに、エズラはおよそ4ヶ月の月日を費やしてエルサレムへと帰って来きます。そして、再建された神殿で無事に帰還できたことへの感謝のいけにえを献げるのですが、今朝の最初にありましたように、『これらのことが終わった後』、指導者たちがエズラの下にやって来ます。その時、彼らが語ったことが1~2節に書かれてあったことです。特に2節の最後の

『しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」』

ということばは印象的ですね。そのことを聞いたエズラは、3節。

『私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった』(エズラ記 9:3)。

3. 雑婚の罪

多くの註解書は、このことを「雑婚」と表現していました。個人的には、「雑婚って、他にもうちょっと言い方ないんか」と思ってしまうのですが、それは、「雑種」とか「雑草」という言葉を連想してしまうからです。あのNHKの朝ドラのモデルになった牧野富太郎という植物学者は「雑草という草は無い」と言ったそうですが。確かに、旧約聖書は神によって選ばれたイスラエル、ユダヤ人の歴史と言えるでしょう。しかし、それは彼らを通して神がみこころを行うためであって、ユダヤ人が特別に素晴らしい民族で、この世界を支配するように、ということではなかったと思います。しかし、それが後の時代に、間違った選民意識へと変化し、さらに言えば、皮肉にも、あのホロコーストを行ったナチスの優生思想という思想にまでつながっていったように思えます。ナチスはユダヤ人だけを迫害したのではなく、「T4作戦」と呼ばれる強制的安楽死政策で、障害者や同性愛者など、約10万にも及ぶ人たちをも抹殺しました。それは、自分たちの考え方、価値観に合わない者は、存在自体が「悪」であり、抹殺してもよいという、本当に身勝手でおぞましい思想に基づくものでした。今朝の9章後半でエズラが採った「雑婚」への対応策は、異邦人の妻たちを追放するということでしたが、そのことについて、ある註解書に次のような説明がありました。

「エズラ記、ネヘミヤ記が現代的感覚にとって一つのつまずきの可能性を持つのは、この雑婚問題の処理、特に離婚強制という措置であろう。実際問題として、これが以降のユダヤ教における偏狭、排他的傾向への一ステップとなったことは見過ごせない。しかし、聖書を注意深く学ぶことによって、エズラが真に目指していたものが何であるかを正確に知る必要がある。旧約聖書はイスラエル以外の民族をも、究極的には救いの対象としており、他民族との結婚を絶対的に否定しているのではない。異邦人の持つ偶像礼拝とそれに伴う諸悪に、選びの民が汚染されることに対して厳しい警告を与えているのである。その厳しさはその時の状況によって硬軟各様の表現を示しており(例えばルツ記)、エズラの時のように“選民の再出発”というべき時期においては、その厳しさは強烈なものであらざるを得ない、と理解することができる」。
ii 「新聖書註解 旧約2」P653 千代崎秀雄著 いのちのことば社

<結論>

この時のエズラが行った厳しい措置は、「申命」7章1~5節、つまり、モーセの律法に基づくものでした。そもそも、イスラエル王国が南北に分裂した原因の一つも、ソロモンが多くの異教徒の妻妾を持っていたことにあったと言われていますが、祭司であり学者であったエズラには、その先祖が犯した罪が心に深く刻み込まれていたのでしょう。そして、それは別の言い方をすれば、ソロモンも今朝のエルサレムの人々も、この世と妥協したと言えるでしょう。この世で賢く生きていくためには、或いは、豊かになるためには、「郷に入れば郷に従え」。この世の価値観と上手く付き合ってゆかなければならない。先程、その厳しさはその時の状況によって硬軟各様の表現を示し、とありましたが、実際、この世で天に国籍のある者として生きようとする時、判断に迷う場面も多いですよね。イエス様は、

「あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタ6:24b)

と言われました。私も社会で長く働いてきましたので、振り返ってみて、今でも痛みを覚えることは多くあります。願わくは、まず神の国と神の義を求めることができれば、と切に願います。
その上で、今朝、皆さんと覚えたいことは、私たちは新約の恵みの時代に生かされているということです。今更言うまでもないことですが、人は律法を守ることによって救われるのではなく、ただ神の恵みによって、イエス様の真実によって救われるのです。今朝の開会聖句にあるように、そのことでユダヤ人とギリシア人の区別はありません。つまり、神の選びは民族や人種による選びではないのです。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みを与えてくださるのです。

『「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです』(ローマ10:13)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF112KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌160番、メッセージ後:新聖歌264番

聖書交読

詩編148篇 1~14節

2025年教会行事


11月12日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2998

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