信仰と愛

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 12章1~11節>
牧師:砂山 智

開会聖句

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

<ヨハネの福音書 12章8節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・「ヨハネ」からの四回目です。今朝の物語に登場する人物のうち、マルタとマリア、そしてラザロは兄弟姉妹であり、ともにイエス様とは特別な関係にあった人たちでした。今朝の物語の平行記事は「マタイ」26章と「マルコ」14章にありますが、そこでは、ベタニアに住んでいたツァラアトに冒された人シモンの家であった出来事として記されています。「ルカ」7章にもよく似た記事がありますが、これは、ルカが独自の資料を元にして書いた別の出来事と思われます。また、不思議なことに「マタイ」と「マルコ」の平行記事には、香油を塗った女性(マリア)の名前は記されていません。マルタやラザロも出て来ません。「ヨハネ」だけが、それらの人たちの名前まで書き残しているのですが、それはやはり、一つ前の11章にラザロの死と復活の記事があるからでしょう。本福音書にはイエス様が行われた八つの奇跡が記録されていますが、その「第七のしるし(奇跡)」がラザロの復活です。この奇跡によって、当時のユダヤ教指導者層のイエス様への敵意はピークに達し、後の十字架へとつながって行くのですが、その意味で、ラザロ復活の奇跡は、他のどの奇跡よりもイエス様の死と復活の意味を明らかにしていると言えるでしょう。

<本論>
1.家は香油の香りでいっぱいに

冒頭の1節には、今朝の話がいつのことだったのかについての説明がありました。それは『過越の祭りの六日前』。過越の祭りが受難週の木曜日の日没から始まったとすると、イエス様がベタニアに来られたのは、その前の週の金曜日の日没後ということになります。次の2,3節には、マルタとラザロとマリアの名前が出てきますが、「マタイ」と「マルコ」にあったツァラアトに冒された人シモンの名前は出てきません。その理由は分かりませんが、著者ヨハネは、マルタは給仕し、ラザロはイエス様とともに食卓に着いていた、と記しています。このマルタの姿は、「ルカ」10章最後の、よく知られた短い物語を思い起こさせるのではないでしょうか。マルタはイエス様一行をもてなそうと忙しく働き、マリアはイエス様の足もとでみことばに聞きいっていたという。それでマルタはマリアに対して癇癪を起すのですが、やっぱり、人間の性格と言うか、性質というのは、なかなか変わらないものなんだということを改めて思わされます。もちろん、マルタの行動も決して非難されるようなことではありませんし、大切な働きと言えますが、その後の3節に記されているマリアの姿と比べると、どうしても対照的に見えてしまいます。3節。

『一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった』(ヨハ12:3)。

脚注に、一リトラは約328グラムとありますので、だいたい缶ビール1本ぐらいの量ということになります。5節にあるユダのことばによると、その香油は、当時、三百デナリ(三百日分の賃金)で売ることができたということですので、先程のみことばにあったように、相当、高価な香油だったのでしょう。また、マリアは、その香油をイエス様の足に塗っただけでなく、自分の髪でその足をぬぐったのです。当時のユダヤでは、女性が髪の毛をくくらずに公の場に出ることは決してなく、そんなことをするのはふしだらな女のしるしだったということですので、この時、マリアがしたことは、どれほど周りの人たちを驚かせたでしょうか。それは、言わば、損得勘定一切抜き、人の目を全く気にしない行為でした。それほど彼女はイエス様のことを心から愛していた。もちろん、自分の兄弟ラザロをよみがえらせてくださったことへの感謝の思いもあったでしょう。彼女は、この少し後でイエス様が十字架にかけられて殺されてしまうということまで理解した上で、このようなことをしたわけではなかったと思いますが、イエス様を想うその一途な想いが彼女をこのような行動へと走らせたのです。ヨハネは、家が香油の香りでいっぱいになったと記しています。香りは、人間の五感の内で、最も原始的で、感情と記憶に直結する感覚だそうです。私は、そのヨハネの描写は、マリアのイエス様への心からの愛を表現したもののように思えました。

2.愛には明日がある

ユダは、そのマリアの行為を見て言います。5節。

『「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」』(ヨハ12:5)。

次の6節は、またヨハネの説明です。

『彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった』(同12:6)。

これは、福音書の中で、唯一、ユダの不正行為についてはっきりと言及している箇所だそうです。ただ、私たちはユダが裏切者で、どうなったかということも知っていますので、「なるほど」と思うのですが、純粋に5節の彼のことばだけを読むと、どうでしょうか?それは正論と言うか、極めてもっともなことを言っているようにも思えます。けれども、このユダのことばには、この時、家をいっぱいにした、かぐわしい香油の香りとは対照的とも言える、胡散臭い匂いのようなものを感じます。考えてみれば、私たちは、隣人を愛すると言っても、自分の力の及ぶ限りで、自分に可能な方法で、自分が気づいた範囲の人たちに、自分がその気になった時に実行しているだけなんですね。助けを求めている人がいても、そのことに気づかない場合はいくらでもありますし、気づいていたとしても、助ける気持ちも力もない場合だって少なくありません。もし、助けを求める人すべてに、満遍なく、十分に応える愛でなければならないのなら、私たちは、自分の愛の中途半端な貧しさに絶望せざるを得ないでしょう。とてもそんなことはできないのが私たちの現実なのです。でも、それでは、私たちの愛は、所詮、いいかげんなものにしかすぎないのでしょうか?否。イエス様が、「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます」と言われたように、隣人への愛は必ずしも今日しなくてはならないことではないということです。今日、助けを求めている人々に応えられなかったとしても、「ごめんなさい」とお詫びをして、次の日に気を取り直し困っている人を助ける。それでも間に合うのが愛だと、イエス様は言われたのです。愛にとって大切なことは、今日は出来なかったとしても、それで自己嫌悪に陥らないで、明日は出来るかもしれないと気を取り直して、自分に出来るだけのことを根気よく続けることなのです。ユダの主張の胡散臭さは、この明日がある愛を、今日、絶対に実行しなくてはならないことであるかのように主張したから、道理は通っていても、何かきれいごとと言うか、建前だけのお題目のように聞こえてしまったのです。

<結論>

今朝のタイトルは「信仰と愛」ですが、信仰は、今お話しした愛とは違います。信仰には、今、今日しかありません。ですから、急いで主との関係を点検しなくてはなりません。悔い改めるべきは、今日、悔い改め、感謝すべきは、今日、感謝しましょう。けれども、愛には明日があります。たとえ今日、実行出来なかったとしても、失望することはありません。気を取り直して次の日に励めばいいのです。ただ、忘れてならないことは、どんな場合でも、今日は愛が実行出来たと思えたとしても、「ごめんなさいね。十分なことができなくて」というお詫びの気持ちを忘れないことだと思います。私たちの隣人愛は、どこまでいってもお詫び付きのものでしかないのですから。

メッセージ内容のダウンロード(PDF94KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌334番、メッセージ後:新聖歌386番

聖書交読

詩編5篇 1~12節

2025年教会行事

3月18日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3016

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