なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 13章1~18節>
信徒:K
開会聖句
あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を。霊が出て行くと人は自分の土に帰り、その日のうちに、彼の計画は滅び失せる。幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。
<詩篇146篇 3~5節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。5/30
はじめに
14章は旧約の中でも読みづらく難解な箇所です。読みづらいのは、馴染みのない地名や読みにくい王たちの名前が多くあって、話の筋を追うどころではないからです。それで、手元に用意しました地図を見ながら、どういう話なのかを説明していきます。ここは今読んでもらわなかった1~16節部分の内容で、今日の17節以降の背景となります。主題は、「アブラムを迎えた二人の王」です。
①死海(シディムの谷)、②マムレの樫の木(ヘブロン)、③ソドムの町々、④シヌアル
⑤エルサレム、⑥ダン、⑦ダマスコ
ケドルラオメル王と3人の王×ソドム近隣の5人の王
アブラハム、マムレとエシュコルとアネル サレムの王 祭司メルキゼデク
ソドムの王たち5人はエラムの王ケドルラオメル王に仕えていたが、13年めに反旗を翻す
ケドルラオメルと3人の王たちは途中に住む○○人たちをばったばったと倒して、南下
シディムの谷で迎え打とうとソドムの王たちが待つ
負けたソドムの王たちは逃げて、穴に落ちたり、山に逃げたり
ソドムとゴモラの町が略奪され、ロトが巻き込まれたことがアブラハムに知らせられる
アブラハムは318人の訓練された者と、マムレ、エシュコル、アネルの助けを得て、追跡
ダンからダマスコの北まで追跡し、すべての略奪された人、財産を取り戻す
Ⅰ.祭司メルキゼデクはアブラハムを神の御名で祝福した
14章は読みづらく難解だと先に申し上げましたが、難解というは、メルキゼデクという不思議な人物が出てくるからです。
17~18節。「アブラムが…ソドムの王は…彼を出迎えに出てきた。」「また、サレムの王メルキゼデクは、…いと高き神の祭司であった。」
敵を追いかけ、略奪されたものを奪い返して戻ってきたアブラハムを、王の谷で二人の王が出迎えます。その二人とは、穴に落ちて幸いにも難を免れたソドムの王と、サレムの王メルキゼデクです。サレムというのはエルサレムのことだそうです。このメルキゼデクは謎めいた人物で、ここにたった一度だけに登場し、あと詩篇110篇に、やはり一度だけ名前が記されてます。この詩篇は代表的なメシア預言の一つで、直接的にはソロモンの即位のときに読まれたと考えられ、新約聖書では来るべきメシア、イエス・キリストを指していると考えられています。特にヘブル人への手紙5章6節では
4節「主は言われた。『あなたは、メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」
の箇所が引用され、さらに
ヘブル7章1節では、「父もなく、母もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく」
とメルキゼデクの出自がわからないことから、イエス・キリストが自らも死ななければならない世襲制の人間の大祭司とは違って、死ぬことのない
「とこしえの大祭司」、神が備えられたまことの大祭司であることを、彼をたとえにして、ユダヤ人に説明しています。
この突如、サレムの王、祭司として現われ、その出自も全くわからない謎めいたメルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってやって来て、戦いから戻って来たアブラハムを祝福しました。
19~20「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」
彼は祭司ですから、この行為は当然のことなのですが、「いと高き神」とは、どの神さまのことなんでしょうか。この時代はたくさんの神さまがいましたし、彼はカナン人で、カナン人の祭司ですが、アブラハムの神を知ってるのでしょうか?「いと高き神」という表現はダニエル書や、新約にもあるにはあるのですが…。ここはどう考えたらいいのかが難解です。色々な意見がありますが、この問題を深追いすることは意味がなさそうです。それより、祭司メルキゼデクという人物がアブラハムに果たした役割を考えることが、私たちには有益だと思います。
アブラハムは彼の人生でたった一回の戦争に加わり,勝利して帰ってきました。巻き込まれたとは言え、勝ったのですから、意気揚々と帰ってきたはずです。先の1~17節には、神ということばがありません。この戦いは、人間主導で進んだ話と考えられます。アブラハムは、自分の家で生まれた精鋭318人を引き連れ、マムレたちの援軍もあって、見事に王たちから略奪したすべてを取り返しました。その帰り道、サレムの王で、祭司でもあるメルキゼデクがパンと葡萄酒を持ってやってきました。それは、疲れている彼をねぎらうためと考えられます。また、19~20節の祝福の祈りは戦勝者に対する儀式であったかもしれません。ただ、気づかされることは、アブラハムはこの祈りによって、この勝利はいと高き神、天と地を造られた方の力によるのだということに、ハッとさせられたのではないかと思います。神を忘れていたわけではなくても、でも物事がうまく行っているとき、人間は神を後ろにやりがちになります。祭司の役割は、人を神の前に立たせることです。メルキゼデクの祈りで、平常心を取り戻した彼は、すべてのものの十分の一を彼に与え、礼を尽くしたのだと思います。
Ⅱ.ソドムの王はアブラハムに財産を与えようとした
さて、先にアブラハムを出迎えに来ていたと思われるソドムの王との対面ですが、この2人の王はとても対照的です。メルキゼデクは神の祝福をもってアブラハムを歓迎しますが、ソドムの王は物質的なもので、彼に感謝を表わそうとします。ソドムの王は言います。
21節「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
しかし、
22~23節「アブラハムはソドムの王に言った。『私は…誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何1つ取らない。それは、…』と言わないようにするためだ。」
ずいぶん毅然とした態度です。アブラハムの神への誓いは、19節のメルキゼデクの口調と同じです。ただ、彼は神の個人名を知ってますから、「主」に誓います。彼はメルキゼデクの祝祷のあと、確かに信仰を取り戻してます。勝利したのは、神の力によることを思い起こしたのでしょう。そしてソドムの王に「あなたを富ませたのは私だ」と言わせないために、厳しい態度で接しています。恩を売るということばがあります。ソドムの王は「財産は取っていいから、人は返して」と言うことで、アブラハムに恩を売ろうとしているのですね。でも、アブラハムはそういう関わりをこの王とは全く持ちたくない。何よりも人間の王には頼らない。自分が信頼し、頼るべき方は主だけだ、という彼の新たな決意がここであらわれています。
今日の開会聖句は
詩篇146篇3~7節「あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を。霊が出て行くと,…。幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、 主に望みを置く人。」
は、このときのアブラハムの心境そのものだと思います。私たちにとって、幸いなのは主に望みを置くことです。ただ、2つのことは気をつけましょう。これは人の助けは要らないということではありません。私たちは一人で生きるのはよくないと、助け合うものとして造られてます。また、最後24節のアブラハムのことば
「私と一緒に行動した者たちの取り分は別だ。アネルと…取らせるように」
は、彼を助けてくれた仲間たちへの配慮です。彼自身はソドムの王の申し入れをきっぱり拒否しました。信仰によって。でも、それを他人に強いることはせず、彼らにはふさわしい取り分、報酬を与えることを指示します。私たちはとかく自分に甘く、人には厳しくなりやすいですが、信仰者として襟を正しつつ、他者には優しく配慮する姿勢を、ここから学びたいと思います。
終わりに
今日は難解と言われる14章を読みました。ここから、教えられたことを確認して終わりましょう。一つはアブラハムが祭司メルキゼデクに祈られたことで、信仰が強められたことです。私たちは万人祭司と言われるように、一人一人が祭司なんです。その人を神さまの前に立たせるという大切な役目が与えられていることを覚えて、これからも互いのために、また隣人のために祈りに励みましょう。もう一つは、他者への配慮です。私たち個人の信仰に基づく振る舞いは神さまに喜ばれるものですが、相手を配慮する心が優先されると思います。信仰は自発的なものであるからです。今日はペンテコステ、教会の誕生日。召された神の民として、するべきこと、慎むことをわきまえて、歩む者でありたいと願います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌135番、メッセージ後:新聖歌299番
聖書交読
詩編 15篇 1~5節
2026年教会行事
5月27日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3026