はいよろこんで

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ネヘミヤ書 4章1~14節>
牧師:砂山 智

開会聖句

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

<コリント人への手紙第二 9章7節>

メッセージ内容

Youtube動画

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
「ネヘミヤ」は、少し前に取り上げた「エズラ」の続編と言われています。エズラは祭司であり、学者でしたが、本書の主人公ネヘミヤは、ペルシアの王の献酌官であったと紹介されています(ネヘ1:11)。献酌官という役職、呼び名は、今はほとんど聞くことはありませんが、言い換えれば「給仕役」ということになるでしょう。ただ、当時の王宮の献酌官ですので、今のホテルやレストランにいるような給仕役とは違います。まず第一に、王の食事に毒が盛られたりすることを防ぐという重要な役割を担っていたと思われます。ということはもちろん、他の誰よりも王から信頼されている人物でなければならなかったということになるでしょう。ですから、献酌官というのは王の側近中の側近であり、恐らく、政についても何かと進言できる立場にあったのではないでしょうか。

<本論>
1.愛は痛みだ
さて、そんなネヘミヤでしたが、1章の最初をご覧いただくと、アルタクセルクセス王の第二十年、スサの城にいたとき、彼の兄弟の一人であるハナニから、捕囚を免れて生き残ったユダヤ人のこと、及びエルサレムの様子を聞かされます。ハナニは、祖国に残された同胞たちは大きな困難と恥辱の中にあり、城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままであると訴えます。そのハナニのことばを聞いて、ネヘミヤは、座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神に祈った、と記されています。
新約の「ローマ」12章15節に、

『喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい』

とありますが、最近、つくづく思うのは、これは本当に難しいことだなと。私たちは、自分の事情や都合はもっと聞いてほしいし、知ってほしい。なんで分かってくれないのかと思うのですが、他人の事情や都合についてはほとんど関心が無い。人から自分のことで何度も同じことを聞かれて、「それ、この前も話したよね」と、思ってしまう時があるのですが、よく考えてみたら、自分も同じことを人にしているという。しかし、この時のネヘミヤは違いました。まさに、泣いている者たちとともに泣いたのです。ネヘミヤは、ペルシアという大国の、いわば高官でしたから。ハナニからの訴えに対して、同情するふりだけして、ある程度の支援をしてやれば、それで済ますこともできたでしょう。しかし、彼は、今の自分の恵まれた境遇に安住することはできなかったんです。ミシェル・クオストというカトリックの神父で、社会学者で、詩人でもあり、多くの詩を残された方がおられますが、次のような詩を残しておられます。

「子よ、愛することは容易じゃない。誰かを愛していると思っても、それはしばしば、自分を愛しているに過ぎない。そこですべてが駄目になり、そこですべてが御破算になる。愛することは、誰かに出会うことだ。そのためには、喜んで我が城をあとにして、その人に向かって、その人のために歩かねばならない。愛するとは心を通わせることだ。心を通わせるためには、その人のために自分を忘れ、その人のために完全に、自分に死なねばならない。」

厳しいことばですね。しかし、本当に人を愛するというのは、それほど厳しいことだということでしょう。

2.ネヘミヤの祈り
そしてネヘミヤは、遂に自分の心の中にある願いを王に申し出て、「総督」に任命され(ネヘ8:9)、エルサレムに赴くことを許されるのですが、エルサレムに到着した彼を待ち受けていたのは、かつて神殿を再建した時と同じような妨害でした。それを主導したのは今朝の1節と3節に名前が出てきたサンバラテとトビヤという人物です。この二人の名前は2章にも出てきます。2章10節。

『ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである』(ネヘ2:10)。

少し話の本筋から離れますが、「ネヘミヤ」は、出来事の時間的な順番が記述通りにはなっていません。聖書では、しばしば、そういうことがありますが、今朝、読んでいただいた4章前半の出来事も、時間的には3章の続きではなく、2章の最後からの続きとなります。3章は城壁修理の工事を担当した人たちの名簿ですので、時間的にはもう少し後のことになります。
ということで本筋に戻りますが、今月の「日々のみことば」の執筆者は武田先生で、先程の2章10節について、不機嫌になったサンバラテはずっと不機嫌であり続ける。妬み、憎しみ、敵意は、簡単に消えないどころか、増大していくものだ、と書いておられました。今のイスラエルとガザや、ロシアとウクライナを見るにつけ、本当にそうだなぁと思わされます。サンバラテとトビヤも、その妬み、憎しみ、敵意を増大させていったのです。それが、今朝の2,3節にあったような非難や嘲笑につながったのでしょう。けれどもネヘミヤは、それらの非難、嘲笑に対して、直接、反論することはしませんでした。4,5節をご覧いただくとお分かりのように、反論せずに神に向かって祈ったのです。私だったら、ありもしないことで非難されたり、嘲笑されたりしたら、すぐにむきになって反論するでしょう。しかし、それは結局、お互いの感情のぶつけ合いのようになってしまう事が多いように思えます。そんな時、一歩引いて、冷静になって、神に助けを祈り求める。とても難しいことですが、もし、それができたなら、相手に対する苦い思いをすべて神に向かって吐き出して、心が落ち着き、問題の本質が見えて来るのかもしれません。

<結論>
そして、6節。

『こうして私たちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである』(ネヘ4:6)。

最後の「民に働く気があったからである」というのは、面白い表現ですね。「新共同訳」「岩波訳」は「民には働く意欲があった(湧いてきた)」と訳していました。実際、この後、エルサレムの人たちはネヘミヤの指導の下、様々に働いて、サンバラテやトビヤからの妨害をはねのけ、城壁を再建していくのですが、それは、民に働く意欲が湧いてきたから、だったのですね。武田先生は次のように解説しておられました。

「聖書の中で最も輝いて見える記事は、自発的な行動があふれ出ている記事ではないでしょうか。私たちも原点に戻りましょう。私たちはイエス・キリストにあって、神さまのために仕えたいから奉仕しているのではないでしょうか。」

『一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は(、)喜んで与える人を愛してくださるのです』(Ⅱコリ9:7)。

この喜びこそ、私たちの信仰の原点ですが、注意も必要です。例えば、あなたは誰かからそう思い込まされてはいないでしょうか?また、ええかっこしいになってはいないでしょうか?そして、本心からではなく無理をしてそのように振舞ってはいないでしょうか?いつも神に祈りつつ、自分自身の心を見つめながら、喜んで与える人となれますように。

#57-3001

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