主を喜ぶことは

メッセージ

<ネヘミヤ記 8章1~18節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。

<ネヘミヤ記 13章31節後半>

メッセージ内容

<序論>  
・「ネヘミヤ記」からの三回目です。ネヘミヤは、外なる敵、内なる敵からの様々な妨害に遭いながらも、エルサレム城壁の再建工事を成し遂げます。

『こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。』(ネヘミヤ6:15)。

そして、その工事の最後に、ネヘミヤ自身が扉を取り付けたことが、7章1節に記されています。

『城壁が築き直され、私が扉を取り付けたとき、門衛、歌い手、レビ人が任命された。』(同7:1)。

まず、町の安全を確保するために門衛が任命され、神殿での礼拝が滞りなく行われるために歌い手とレビ人(祭司)が任命されました。ネヘミヤの最終的な目的は城壁を再建することではありませんでした。それは、より困難な仕事でもありましたが、目に見える城壁を再建することによって、エルサレムの民の見えざる霊的な城壁を再建することでした。そして、2節。

『私は兄弟ハナニとこの城の長ハナンヤに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナンヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからであった。』(同7:2)。

先週もお話ししましたように、エルサレムの内部には、内なる敵(敵への内通者)が多くいたようです。その中で、ネヘミヤが選んだリーダーは、兄弟ハナニ(かつて、スサの城まで報告に来てくれた人物)と、城の長ハナンヤでした。ハナンヤは、誠実で、誰よりも神を恐れる人であったと記されています。私たちの教団・教会にも、そのような方々がおられます。昨日の「教団協議会」で、改めて思わされました。

<本論>
1、律法の朗読

さて、エルサレムの城壁が完成したのはエルルの月(第六の月)の二十五日でした。そして、その直後、

『第七の月の一日に』(同8:2)

に、水の門の前の広場で集会が持たれとあります。「レビ記」23章24節などによると、この日は角笛(ラッパ)を吹き、聖なる会合を持つべき日とされていました。だから、民は集まって来たんですね。そして、広場に集まって来た民は、学者エズラに対して、モーセの律法の書を持って来るようにと言った、と記されています(1節)。再建された城壁を目の当たりにして、彼らの心(魂)に霊的な飢え渇きが生まれたのでしょうか。「ネヘミヤ記」でエズラの名前が出てくるのは、ここが初めてです。エズラは、9節にあるように、学者であり、祭司でもありました。彼は、この時から13年ほど前の紀元前458年にエルサレムに帰還し、雑婚問題などを解決するため、様々な改革(信仰復興運動)に取り組んでいたと思われます。城壁の再建は僅か52日で成し遂げられましたが、私たち人間の魂の再建には、それとは比べ物にならないくらいの時間がかかるのです。何よりも、忍耐が大切だということを思わされます。そして、3節には、夜明けから真昼まで、エズラが律法の書(モーセ五書)を朗読したことが記されています。

『エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて礼拝した。』(同8:5,6)。

そして、レビ人(祭司)たちが律法の書を解き明かしたので、民は読まれたことを理解したとあります。
ある方は、これは、今日、行われている、私たちの礼拝の原型と言える、と書いておられました。

2、律法への応答

『総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。』(同8:9)。

新約聖書の「ローマ人への手紙」で、パウロは次のように書いています。

『なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。』(ローマ3:20)。

広場に集まって来た民が律法のことばを聞いたとき、悲しみ、泣いたのは、まさにパウロが言っているように、罪の意識からであったと思います。しかし、この悲しみ、涙は、意味のないものではありませんでした。パウロは、「Ⅱコリント」で、次のように書いています。

『神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(Ⅱコリント7:10)。

<結論>
今日の開会聖句とさせていただいたのは、「ネヘミヤ記」の最後のことばです。

『私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。』(ネヘミヤ13:31後半)。

ネヘミヤは、同じように、先週の説教でお話しした5章の最後でも。また、この13章14節、22節でも、祈っています。そして、年代的に見れば、このネヘミヤの祈りのことばが、旧約聖書最後のことばということになります。ネヘミヤの祈りによって、旧約の歴史は閉じられるのです。それは、どういうことかと申しますと、年代的に見れば、この「ネヘミヤ記」の最後は紀元前433年頃と考えられ、その後、新約の時代が始まるまで、約400年間、空白の時代、沈黙の時代が続くのです(中間時代)。もちろん、実際の歴史には空白とか沈黙の時代というのはありませんので、その400年間にも、歴史上、重要な出来事(事件)がありました。最も注目すべきは、あのアレクサンドロス大王(マケドニア)の登場でしょう。彼は、ある意味、新約の時代の道備えをしたと言いますか、舞台を整えるような働きをした人です。

私は今回、「ネヘミヤ記」を閉じるにあたって、旧約(旧い契約)と新約(新しい契約)の違いを、そして、新約の時代に生かされている恵みを、改めて思わされました。確かに、ネヘミヤは、神によって選ばれた素晴らしい人物であり、神の器でした。「火中の栗を拾う」という言葉がありますが、ペルシアでの恵まれた地位を捨て、大きな困難が予想されるエルサレムに帰還し、外なる敵、内なる敵に悩まされながらも、城壁再建という志を見事に果たします。また、今日、見てきましたように、総督という自分の立場をわきまえ、律法を教えるということについては出しゃばらずに祭司エズラに任せました。実に行き届いた人と言いますか、できた人であったと思います。ただ、そんなネヘミヤでありましたが、彼は、イエス様のことは知りませんでした。それは当然です。彼は旧約の時代に生きた人ですから。しかし、私たちは、新約の時代に生かされています。

パウロは、「ガラテヤ人への手紙」の中で次のように書いています。

『それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって(別訳:イエス・キリストの真実によって)、信じる人たちに与えられるためでした。信仰(真実)が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰(真実)が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰(真実)によって義と認められるためです。しかし、信仰(真実)が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、信仰(真実)により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。』(ガラテヤ3:21~26)。

主を喜びましょう!

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新聖歌

開会祈祷後:156番、
メッセージ後:206番

聖書交読

詩篇 122篇 1~9節

2019年教会行事

3月20日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2651

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