なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 13章1~18節>
信徒:K
開会聖句
しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。
<テサロニケ人への手紙第二 3章3節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
はじめに
「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということばがあります。論語を書いた孔子のことばで、度を超えるのは不足することと同じで良くない、物事はほどほどがよいという意味です。旧約の箴言(30:8)にも似たことばがあります。
「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主とはだれだ』といわないように。また私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことがないように。」
豊かすぎたら主を忘れる。貧しすぎたら、盗みをして御名を汚す。ほどほどで養ってくださいという祈りです。 13章は、急に増えた財産で、アブラハムに問題が起きます。ここでの彼は、前回の我が身を守ろうとした自己中心的な姿とは違って、他者を優先する信仰者の模範を残しています。主題は「エジプトから戻ったアブラハム」。彼がなぜそんなに変わったのでしょうか。そして、その彼が次の問題をどう乗り越えたかを見ていきましょう。
Ⅰ.エジプトから帰る旅で、アブラハムは自分の信仰を見つめ直した。
12:20「ファラオが…送り出した。」
を読むと、アブラハムは丁重にエジプトから追い出されています。妻サラを自分の妹と偽り、ファラオに差出した見返りの財産を奪われることなく。それは、ファラオが17節
「しかし、主はアブラムの妻サライのことで…打たれた。」
からです。物事というのは急展開することがありますが、このときはまさにそうですね。アブラハム自身は事の成り行きを不思議に思いつつ、エジプトを出たのかもしれません。そして、道々サラからファラオに降りかかった災いの詳細を聞いて、ようやく神さまの介入を知ったと考えられます。これは、神さまにとっての大きな危機でした。サラがファラオに召されてしまっては、アブラハムの約束の子孫は実現しません。神さまが介入され、ファラオの思いを阻止されました。サラはどんな思いで、その話を夫にしたのでしょう。皮肉交じりに、あなたは私に偽らせたけど、主が助けてくださったと。それとも、サラも夫も当時の事情をよくわきまえていて、あわやという所で、主が助けてくださったことを共に感謝したのでしょうか。
聖書から推測できることは、彼はその話を聞いて、ネゲブで飢饉に遭遇してからの自分の信仰を、振り返っただろうということです。1節「そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。…」彼はエジプトからネゲブまで戻りましたが、そこを通り越し、カナンで最初に天幕を張り、祭壇を築いた地、ベテル近くに戻ります。この逆戻りの旅は、彼が自分の恐れー美しい妻のゆえに自分は殺されるーで一杯のときも、主が共におられて、自らの策略で招いた愚かな行為から救いだしてくださったことを思いだし、「わたしはあなたを大いなる国民とし…」という神さまの約束を思い起こす時間でした。初心に返ったわけです。
彼のこの旅は私たちの信仰生活と似ています。私たちは日常、各々の方法で、各々の時間に神さまと会います(礼拝)。聖書を読む、祈る。黙想する。聖日礼拝では、兄弟姉妹と一緒に礼拝を献げ、主にある交わりをして、主の恵みを分かち合います。月1の聖餐式では共通体験としてパンとぶどうジュースを頂きながら、十字架のみわざを想起します。これらは、クリスチャンが守るべき習慣として教えられます。でも守らないといけないと思うと、窮屈になります。でも、それらの習慣は私たちを縛るものでなく、本来私たちを守るものです。パウロはこう言っています。1コリント15:10
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」
彼は、迫害者からキリストのために誰よりも多く働くものになりました。これは神の恵みによると彼は言います。この世で生きる私たちは当然、この世の影響を受けます。しかし、アブラハムのように信仰の初心に返ることで、信仰は守られます。教えられた習慣を守ることで、神さまの大小の恵みを思い起こすことができるからです。私一人だけでなく、兄弟姉妹の恵みを共有し、信仰の先祖が経験した恵みを共有し、「主は真実な方である」と確認できます。アブラハムは彼への神の約束が守られたことを知って、信仰を回復し、再び、主の御名を呼び求めました。自分の信仰を振り返り、恵みを思う、それが回復への道です。
Ⅱ.主への信頼を回復したアブラハムは、他者ファーストで問題を解決した
ここでロトが3度目の登場。アブラハムの兄ハランの子で、ハランにはミルカ、イスカ、ロトと3人の子がいました。兄の死後、アブラハムはまだ若い甥の面倒みてきたのでしょう。ウル、ハラン、カナンへと一緒に行動しています。アブラハムの財産は、召しを受けたとき
12;5「自分たちで蓄えた財産とハランで得た人々」→ファラオのプレゼント12:16「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男奴隷、女奴隷、雌ろば、らくだを所有」→13:2「家畜と銀と金を非常に豊かに」
と、確実に増えています。5~7節。ロトも家畜や天幕を持っていました。別所帯だったわけですね。そして、両方とも特に家畜が多くなることで1カ所で共存するのは難しい状況になってきました。そこは元々誰も住んでない空っぽの地ではなく、先住民もいましたし。
イサクやヤコブの記事には、他民族と井戸をめぐって争ったり、水を飲ませるために牧者が順番待ちの様子があります。1つの貴重な井戸を共有するので、ルールがあるのです。牧草地のこともあるでしょう。アブラハムとロトが不仲だったわけではないのですが、アブラハムは争いが起こっている現実を見て、「これ以上争いがないように、別れよう」と即決します。身内のロトと争いたくないし、ロトも十分一人前になっていたかもしれません。アブラハムの提案は8,9節「全地はあなたの前にあるではないか。…あなたが左なら、私は右に行こう…。」というものでした。家長であり、年長者であるアブラハムに、選択権があると思われますが、彼はそれをロトに譲りました。建前でしょうか。「いやいや、おじさんが先に選んでください」となることはわかってるから。否そうではありませんでした。ロトは全地を見渡して、肥沃な低地を選びます。そこは10~11節「…主の園のように、またエジプトの地のように、どこまでも潤っていた。ロトは、自分のために…選んだ。」彼は自分のために良いと見える土地を選んで、移動しました。自分ファーストです。その決断はまずい結果になるのですが、それより、12章では自分ファーストだったアブラハムがなぜ、ここでロトに選択権を譲ることができたのでしょう。なぜ、ここで他者ファーストができたのかです。
それは、もうお気づきのように、彼の信仰が回復したからです。主は真実な方であって、彼はその祝福の約束をしっかり握りましたから、自分を守ることに執着しませんでした。今日は応答賛美に「神の時の流れの中で」を選びました。この賛美をよく口ずさんだ時期がありました。主人が新しい職を探していたときです。将来が不安でした。私は一生懸命この賛美を口ずさみ、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせてました。そして、主は主人にふさわしい職場を与えてくださいました。今回、この歌詞を読みながら、考え直させられたことがあります。「示したまえ 深い主の御心を」ですが、御心というと、右か左かのような、具体的な道が指示されるようなことを思っていましたが、いやそうではないと思ったのです。もちろん、そういう場合もあるでしょうが、この讃美の歌詞が言っている「深い主の御心」とは、まず主の真実だと思いました。具体的なあれこれより、主が私にとって真実な方であることを知る(体験する)ことで、心が不安や恐れから解放され、新しい一歩を踏み出す勇気が与えられる、そう言っているように思いました。
アブラハムは主の真実を信じたので、他者ファーストを行い、円満にロトと別れることができました。その後、彼は残された土地を子孫に与えるという約束を神さまから頂きました。
終わりに
今日の開会聖句は、Ⅱテサロニケ人3章3節
「しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪者から守ってくださいます」
です。この教会の特徴は、パウロが迫害で移動する途中の大変短期間で立てたことです。パウロは伝えたけど、十分理解されなかったことや問題に対処できない事態が起こってきました。それに対するパウロの励ましのことばです。
私たちは、先月、教会の今後について大きな決断をしました。その選択がどうなるのかは誰にも分かりません。分かっていることは、神さまは真実な方であるから、私たちの信仰を最後まで強め、守ってくださることです。共同体の形は時代とともに変わることがありますが、クリスチャンは共同体の中で生きることは変わりません。孤独なクリスチャンはいませんし、孤立したクリスチャンもいません。主の真実に強められ、信頼していきましょう。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌315番、メッセージ後:新聖歌333番
聖書交読
詩編 11篇 1~7節
2026年教会行事
今週の集会はお休みです。
#58-3022