信仰の父アブラハム

メッセージ

<創世記 15章1~21節>
牧師:徳本 篤 師

開会聖句

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

<ローマ人への手紙 5章1節>

メッセージ内容

序論)
新約聖書において、考えの違いとなってあらわれることですが、律法学者たちはユダヤ教の始まりをモーセの律法からと考えました。しかし、パウロはアブラハムからと考えています。この両者の考えの違いは、福音、すなわち、キリストの十字架と復活の意味の理解に大きな開きが生じました。

今日の聖書個所となる創世記15章で、アブラムが、

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

と書かれた記録は、初代教会時代、のみならず、後世において、現在においても、人が救われることの確証をめぐる論争における非常に重要な証言となりました。 あらためて神が私たちの「信仰の父」として立てられた、アブラハムの信仰の根源を学ぶことは、私たちの信仰の確証となる重要なことです。 それは私たちがクリスマスの本当の意味を知るうえでも非常に重要なことになります。 知らないで祝う者のようではなく、知る者として心から喜び祝いたいと思います。

本論)
さて、

創世記15章6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

とは、どのようなことを表しているのでしょうか。 「信じた」というアーマン(Heb)は、祈りの後にアーメンと唱和する、その語源となっています。それは信用すること。真実なことを確信する。信じて託す。ことなどをあらわします。

ですから、「彼は主を信じた」とは、アブラムが「まだ見ていない」、主の約束のことばを、無条件で信頼したことを強調したものです。 例えば、ルカ1章45節において、エリサベツが、後に、イエスの母となるマリヤへの賛辞のことばとして語った、

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」

とことばにも、マリヤの信仰がアブラハムの信仰と同質のものであるが強調されています。この箇所をそう読んでみると、マリヤという女性の人物像がさらに鮮明になってきます。

次に、「主はそれを彼の義と認められた」とは、神の視点からアブラハムの信仰をご覧になられ、それがご自身の求めておられる基準に、合致したことを承認された事実が強調されています。人の義は、正義、仁義、義理などの人として社会の規範を守ることで判断されますが、神の義は神ご自身の基準で判断されるところに特徴があります。さらに

「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 (ローマ5章1節)

と書かれているように、義と認められることは、私たちと神との間の隔てとなる壁が一切取り払われ、完全な平和がもたらされることになります。 

創世記15章~17章で、義と認められることがアブラムの信仰が完成したことでも、終点でもないことが、このあと続いてアブラムが経験する彼の弱さや、失敗の中に見出されます。 従って、信仰義認とは、信じたという行為を何かの立場を得たかのように誇ることではありません。 アブラムは神のことばの事実を素直にアーメンと告白して肯定したものです。その約束の有効性が決して変わらないことを確信したのです。 

ローマ4章21節~22節でパウロが「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

と語っているところでも、その事実が明らかにされています。

さらに、創世記15章で、アブラハムの信仰の記録は、彼が主のことばを信じた場面だけで終わってはいません。 7節の、主が将来にアブラムの子孫が所有する土地について約束をされた場面では、子どもがいなく、年を重ねていた、アブラムには、どうしてそれが実現できるのか理解できませんでした。

そこで、主はアブラムに「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来る」ように命じられました。アブラムは言われた通りにそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」しました。 これは当時の契約の習慣に従ってなされたものですが、約束を破る者はこの動物と同じように血が流されることをあらわします。別の言い方をすると、神とアブラムとの約束が永遠に変わらない保証のしるしとして血が流されたことです。

ローマ4章24節~25節で、私たちが、キリストの十字架の死と復活を信じる、信仰が、神によって義と認められたアブラハムの信仰とまったく同質であることの保証として、パウロは、次のように語っています。

「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

結論と応答)
信仰の父アブラムを通して神が私たちに示しておられることは、主の約束のことばが、真実である、ことに、同意したこと。また、キリストの十字架と復活が、救いの証拠であると確信したことを、神が、ご覧になり、その信仰がご自分の基準に合致している、ことを、承認してくださったのです。

私たちの信仰は、アブラムの信仰が義と認められたところから始まり、やがて、主イエス・キリストが再び来てくださるときに完成してくださるものです。それまでの途上において、私たちは様々なことを体験をし、多くの試みに会うことがあります。しかし、主が私たちにうちに始めてくださった良いわざが、かの日には必ず完成してくださることを目標として覚え、日々前に向かって、手を伸ばしつつ、歩み続けていきたいと思います。

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新聖歌

開会祈祷後:80番、メッセージ前:203番、メッセージ後:355番

聖書交読

詩篇 91篇1~16節

お知らせ

★本日の礼拝後に聖歌隊の練習を行います。その後にムジカの練習を行います。クリスマス会場の飾り付けも並行して行います。
★F.N姉・Y.N姉およびS.T姉から献金が届きました。寒い中で日々の健康が守られるようお祈りしましょう。
★次週25日(日)はクリスマス礼拝です。新しい参加者の方々の為に祈りましょう。印刷された集会案内を活用してください。

2016年度後半の主な教会行事
12月25日(日)  クリスマス礼拝/祝会

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