アコルの谷

メッセージ

<ヨシュア記 7章16節~29節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。

<ホセア書 2章15節前半>

メッセージ内容


strong><序論>  
・「ヨシュア記」からの二回目です。前回は1章から「ともにおられる神」と題してお話ししました。モーセの後継者となったヨシュアは

、『わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる』(ヨシュア1:5)

という神の約束だけを信じて、イスラエルの民と共にヨルダン川西岸、カナンの地に踏み出して行きます。そして、彼らが最初に攻略したのが「エリコ」という町でした。私は、エリコと聞くと、どうしても、新約聖書の「ルカの福音書」19章に出てくる取税人のかしらザアカイの物語を思い出してしまうのですが、エリコは世界最古の町の一つと言われており、旧約の時代から、カナンに入るための重要な交通の要衝であったようです。「民数記」22章1節には次のように記されています。

『イスラエルの子らは旅を続け、ヨルダンのエリコの対岸にあるモアブの草原で宿営した』(民数記22:1)。

これはまだモーセの時代の話ですが、イスラエルの民は、このモアブの草原で、カナンに入るための訓練を受け、準備をするんですね。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民がエリコを攻略した様子は「ヨシュア記」2~6章に詳しく記されています。遊女ラハブの物語や、城壁の周りを七日間回って、七日目に民がときの声をあげたとき、堅固な城壁は崩れ落ちた等々。有名なイスラエル大勝利の物語です。
そして、今日、お話しするのは、そのエリコでの大勝利の後、直ぐに起こった出来事なんです。

<本論>
1、聖絶の物

『しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った』(ヨシュア7:1a)。

この「聖絶」ということばは、日本語の聖書の中でも新改訳聖書だけが使っている特殊なことばです。この「聖絶(へ―レム)」について、次のような説明がありました。

「(聖絶とは)申命記とヨシュア記を通じて最も重要な思想を表すことば。主の戦いにおいては、敵の人民、所有物はすべて主に帰すものとして、滅ぼし尽くさなければならない。そこには人間的な同情心や、貴重品を壊すのは惜しいという執着心は許されない。もし聖絶の命令に背くなら、イスラエル自身が聖絶の運命を受けなければならない。ただし、鉛、金、青銅、鉄、およびそれで作った器は、「聖絶の物」ではなく、一般的な「聖別された物」であるから、主の宝物倉に納められる」。

ですから、このことばは、口語訳聖書では「奉納物」、新共同訳聖書では「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」と訳されています。
ただ、考えてみますと、神の命令に背き、聖絶の物をくすねたのは、1節後半にあるように、アカン(災いをもたらすという意)なんです。なのに、なぜ神様は、何か連帯責任のように、彼の罪をイスラエル全体の罪と見なされたのでしょうか。現代は「個人主義の時代」と言われますが、そのような感覚では、なにか納得できないような気もします。
今日は「聖餐式礼拝」でしたが、私たちが聖餐式を行う目的の一つは、私たちが主にあって一つであるということを確認するためとありました。新約聖書の「コリント第一」や「エペソ人への手紙」で、あのパウロも、繰り返し、私たちの教会は契約の共同体であり、キリストのからだとして一つなのだ、と語っています。旧約におけるイスラエルの民も同じであったと思います。ですから、それが、たとえアカン一人の罪であっても、その痛みはその人だけにとどまらないで、共同体全体に大きな痛みを及ぼすのです。

2、水のようになった

この時のイスラエルも、大きな痛みを経験することによって、そのことを徹底的に知ることになります。その痛みとは、大勝利の後の大敗北。まさに天国から地獄というような経験です。あのエリコに大勝利したイスラエルが、本当に小さな小さなアイという町に惨めな敗北を喫するのです。

『アイの人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを討った。民の心は萎え、水のようになった』(同7:5)。

民の心は萎え、水のようになった、とあります。その時のイスラエルの民の姿が目に浮かんでくるようです。
ヨシュアは、その惨めな民の姿を見て、衣を引き裂き、地にひれ伏して神に訴えます。そのヨシュアに、神は次のように告げられるのです。

『立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした』(同7:10)。

そして、さらに、あなたがたの中で罪を犯した者をくじで取り分け、取り除くように、それこそ聖絶するようにとお命じになられたんです。それが、今日の場面です。

<結論>

この場面を読んだ時、私は、「なんでアカンは、自分から申し出えへんかったんやろ?自分がやりましたって。もう、ここまできたらじたばたしてもしゃあないし、自分から申し出たら、神様も赦してくれはったかもしれへんのに」と思ったんですが、私のくだらない経験から、こんな時、何か金縛り状態のようになってしまうこともあるのかなと思わされました。もしかしたら、この時のアカンも、そのような状態だったのかもしれません。
そして、その結果は、どうなったでしょうか?アカンは、アコルの谷(アカンと同じ、災いをもたらすの意味で、語呂合わせになっている)という場所に連れていかれて、彼がくすねた聖絶の物もろとも、石で打たれ滅ぼし尽くされてしまうのです。
このことから、私たちは、どのような霊的教訓を得ることができるでしょうか?神に献げるべきものをくすねてはいけない。例えば、教会への献金は、毎月、きちっと納めなければならない。そうでなければ、あなたもアカンのように滅ぼされてしまうだろう、ということでしょうか?
私は、このアカンの物語から、ある一つのみことばを思い出しました。それは、以前、メッセージでもお話しした、イエス様のみことばです

。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。

ある時、パリサイ人とヘロデ党の者がやって来て、イエス様を罠に嵌めようとして質問するんですね。イエス様は、彼らの欺瞞を見抜いて「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」とデナリ銀貨を持ってこさせて、それを示しながら、「これは、だれの肖像と銘ですか」と逆に質問します。そして、彼らが「カエサルのです」と答えた後、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われたんですが、その時のメッセージの最後で、私は、宮田光雄というクリスチャンの政治学者の方が書かれた一文をご紹介しました。それは、イエス様が言われた「神のもの」とは、私たち一人一人の内に刻まれている神の像(かたち)のことであると。そして、それは、私たちの人格的な応答性、主体的自由の根拠のことで、平たく言えば良心のことであると。つまり、私たちが本当に神に献げなければならないものは、この宮田先生が言われた良心だと思うんです。それは、誰に強制されるのでもなくて、あなたが自発的にお献げしなければならないものなんです。神様は、私たちを、自由な者として、神に主体的に応答することのできる人格を持った存在として造られたと、聖書は言っています。ですから、私たちの献金も、強いられてではなく、脅されてでもなく、自ら進んで献げるものでなければならないのです。もちろん、私たちの現実は、今なお罪との戦いの中にあり、神の御顔を避けようとする、そのような性質を持った者ではありますけれども、やっぱり、そうなんですね。そのために、イエス様は人となって私たちの世界に来てくださったのではないでしょうか。私たちは、喜んで、イエス様の愛にお応えする者でありたいと願います。その時、今日の開会聖句にあるように、私たちの内にあるアコルの谷は、望みの門へと変えられるのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF104KB)

新聖歌

開会祈祷後:98番、
メッセージ後:160番

聖書交読

箴言 22章17~29節

2019年教会行事

9月18日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2676

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