神のものは神に

メッセージ

<マルコの福音書 12章13~17節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

<ローマ人への手紙 12章1節>

メッセージ内容


<序論>  
・今日のテキストの「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」ということばは、クリスチャンではない人たちにもよく知られています。また、色々な場面で様々に解釈され、引用される箇所でもあります。パレスチナでは紀元6年以降、ローマの徴税制度が実施されるようになり、その税金は非常に重く厳しかったので、後の「ユダヤ戦争」の大きな要因になったと言われています。ローマの税金は、三つあったそうです。一つは「地税」(穀物の十分の一、酒とぶどう酒の五分の一)、二つ目は「所得税」、そして三つ目は「人頭税」です。この「人頭税」は、14歳から65歳までの男と、12歳から65歳までの女が納めるようになっており、その額は1デナリで、当時の平均的な労働者の一日分の賃金に相当する額でした。今日のテキストで問題とされたのは、この「人頭税」のことです。

<本論>
1、パリサイ派とヘロデ党

最初の13節に『彼ら』とありますが、それは、

『祭司長たち、律法学者たち、長老たち』(マルコ11:27)

のことです。彼らは、イエス様のことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人を遣わしたのです。「敵の敵は味方」という言葉があります。共通の敵に対しては、仲が悪い者同士であっても手を組むことがあるということですが、パリサイ人とヘロデ党の人たちとの関係は、正にそのような関係でした。パリサイ人というのは、ユダヤ人としての伝統を重んじる正統派の人たちで、外国の支配者、つまりローマの皇帝に税金を納めることについては反対という立場の人たちでした。それに対して、ヘロデ党の人たちは、ガリラヤの王ヘロデ・アンテパス(ヘロデ大王の息子)の支持者で、ヘロデ王家を再興するという目的を達成するために、ローマ政府に積極的に協力し、税金を納めることについても賛成という人たちでした。この水と油とも言えるような二つのグループが、共通の敵であるイエス様を陥れようとして手を結んだわけです。14節にある彼らのことばを読むと、「慇懃無礼」と言いますか、最初に持ち上げておいて、相手が油断したところで核心を突くというような陰険さが窺がえます。彼らの質問は、用意周到に準備され、どのように答えても逃げられないようにと練り上げられた質問であったと言えます。
それは、パリサイ人かヘロデ党かということは別にして、当時の一般的なユダヤ人には、選民である自分たちが、なぜ外国の支配者に税金を納めなければならないのか、おかしいじゃないか、という素朴な疑問があったと思われるからです。もしイエス様が、税金を納めるべきだと答えたならば、そのようなユダヤ人たちから反感を買い、一気に信頼を失うことになったと思います。また、逆に、納めるべきではないと答えたなら、今度は支配者であるローマ政府から反逆者、抵抗勢力として捕まる危険性があったのです。

2、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

イエスは、彼らの欺瞞を見抜いて、

『「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」』(同12:15)

と言われました。それは、ローマ帝国に納めるものですから、イスラエルの通貨ではなく、ローマの通貨でした。ですから、その表面には、当時のローマ皇帝ティベリウスの肖像と、それを取り巻く銘文(「神とされたアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」)が刻まれていました。イエス様は、それを見せて、逆に彼らに尋ねます。

『「これは、だれの肖像と銘ですか。」』(同12:16)。

彼らは答えます。『「カエサルのです」』。質問してきた相手に答えさせるという、イエス様がよく使われた手ですね。そして、イエス様は次のように言われました。

『「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」』(同12:17)。

このことばは、二重三重に罠を仕掛けてくる相手を煙に巻いてしまうと言いますか、そのことばじりをとらえさせない、ある意味、相手をズバッと一刀両断するようなことばだと思います。ですから、

『彼らはイエスのことばに驚嘆した。』(同12:17)

のです。彼らは、このイエス様の答えを聞いて、もうそれ以上、何も言えなくなってしまったんですね。
それでは、私たちは、この『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい』ということばを、どのように理解すればよいのでしょうか?2000年前のユダヤではなくて、2019年、令和の時代の日本で暮らす私たちに、このことばは、どのような意味があるのでしょうか?
実は、以前の【新改訳聖書第三版】では、前半のことばと後半のことばとの間に、「そして」ということばが挟まれていました。それは、原典に「カイ(英語のアンド)」というギリシア語の接続詞があるからなんですが、この接続詞をどのように訳すかによって、結構、意味が変わってくる場合があります。【2017】では省略されていますが。例えば、岩波書店から出版されている聖書では、次のように訳されています。

『カエサルのものならカエサルに、つまり、「神様」のものなら「神様」にお返し申し上げよ。』(岩波訳)。

こうなると少し意味が違ってきますよね。戦前の日本では、天皇を現人神として崇拝する「空気」がありました。当時のイスラエルでも、ローマ皇帝を神として崇めよ、といった無言の圧力(「空気」)が存在したようです。しかし、そんな「空気」にあからさまに反対したならば、戦前の日本がそうであったのと同じように、忽ち叩き潰されてしまいます。ですから、パリサイ人たちも、表立っては逆らわずに、言わば黙認していたわけですが、
岩波訳では、このイエス様のことばを、そんな彼らに対する皮肉として訳しているわけです。面白い解釈ですね。確かに、イエス様のことばには、他にも、結構、皮肉っぽいものもありますし・・・。
ただ私は、ここでイエス様が仰りたかったことというのは、やっぱり、神のものは神に返すということ。つまり、本来、最も大切にしなければならない神のものを後回しにして、この世のものを優先してしまうことへの警告ではなかったかと思うんです。それは、別の言い方をするならば、私たちの信仰が、この世のもの(価値観)に飲み込まれてしまうことへの警告であると言えると思います。イエス様が歩まれた道は、この世の王を目指す道ではありませんでした。この世の王となって、権力者となって、ご自身の計画を成し遂げようとする道ではなく、むしろ、この世では価値がないと見なされている人たち、見捨てられ、虐げられている人たちに寄り添い、共に歩むことによって、神様のみこころを示し、その愛を顕そうとされたのです。そのように考えると、やがてキリスト教は、皆さんもご存じのように、ローマ帝国によって公認され(紀元313年「ミラノ勅令」)、国教となるわけですが(紀元380年「テオドシウス帝」)、その時を境として、キリスト教会、そして聖書の教えは、大きく変容してしまったのではないかとも思わされます。また、私たち日本人クリスチャンは、欧米とは全く違う歴史や文化の中で生かされています。現在、憲法上では、天皇は国民の象徴という立場ではありますが、やっぱり、今回の代替わりについての様々な報道を目にする時、この世の権威と教会との関係、私たちの信仰との関係というのは、本当に微妙な関係であるということを、改めて思わされます。

<結論>
私は、神学校を卒業する時の論文で、「ローマ人への手紙」13章1~7節をテキストにして、平和の問題、或いは、国家とクリスチャンとの関係について、学ばせてもらいました。その時に参考にさせていただいた本(「権威と服従 ―近代日本におけるローマ書十三章」)の著者は、宮田光雄というクリスチャンの政治学者の方なんですが、その宮田光雄先生は、今日のイエス様のことばについて、次のように書いておられます。

”「神のものは神に」という神のものとは何かというと、神の像(かたち)のことなのです。創世記にありますね。神が人間を造る時、己が像に形どって造ったという。つまり、ぼくたちひとりびとりのうちには神の像がある。ぼくたち人間の中に刻まれた神の像とは何か。それは、人格的な応答性、主体的自由の根拠のことで、平たく言えば良心ですね。だから、信仰的良心は神にかえせというのです。ぼくたちが信じ、また良心で判断する内的世界には、政治やカエサルが干渉することは許されないということです。”(宮田光雄)

私は、この一文にある「良心」ということばを読んで、ある人のことばを思い出したのですが、それは、同志社を創立した新島襄のことばなんです。同志社大学の正門の前には、通称「良心碑」と呼ばれる石碑が立っています。そこには、新島先生の次のようなことばが刻まれています。

「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起こり来らんことを」。

他にも、新島先生は、「良心」ということばをよく使われました(「一国の良心とも言うべき人たち」「良心を手腕に運用する人物」とか・・・)。「良心」ということばは、明治以降に日本語として定着したことばだそうですが、一般的には、「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける個人の道徳意識」というような意味で理解されていると思います。私も、今まで、何となくそのように理解していたのですが、先程の宮田先生の一文を読んで、「目からうろこが落ちる」思いがしました。私たちのうちに刻まれた神の像(かたち)、それが「良心」であり、その「良心」を神に返す、神にささげるということ。それをイエス様は求めておられる、ということですね。
聖書は、私たち人間のことを救いがたい罪人であると言っています。確かに、自分自身の内側を見る時、自分ではどうすることもできない真黒な、汚いものがあると強く感じます。しかし、それと同時に、聖書は、私たちひとりびとりのうちには、確かにはっきりと、神の像(かたち)が刻まれているとも、言っているんですね。何と素晴らしいことでしょうか。そして、その神の像(かたち)である良心を、強いられてではなく、義務的にでもなく、自ら進んで自発的にささげていく。それこそが「神のものは神に返す」ということであり、私たち信仰者のあるべき姿なのではないかと思います。
最後に、今日の「開会聖句」を読んで、この説教を閉じたいと思います。

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。』(ローマ12:1)。

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特別讃美

 M.A姉
「わたしのかおとこころ」「星とたんぽぽ」「主の約束」「歌いつつ歩まん」

新聖歌


メッセージ後:146番

聖書交読

詩篇 138篇 1~8節

2019年教会行事

5月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2658

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