人生における価値

    メッセージ

    <伝道者の書 9章1~10節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」

    <マタイの福音書 20章16節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:12/12 AM 0:13


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・「伝道者の書」からの2回目です。前回は3章からでしたが、7章15節のみことばもご紹介しました。

    『私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある』(伝7:15)。

    今朝の箇所の1節の終わりから2節にかけても同じようなことが言われています。そして、さらに伝道者は言います。

    『日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ』(同9:3)。

    このみことばにある「同じ結末」とは死のことです。正しい人も悪しき者も、結局は同じように死んで行く。さらに言えば、伝道者は、この世で善なる行いをしたら善なる結果が得られるとか、正しい人には正しい実が実るというような法則、保障は全くないということまで言いたいように思えます。ここでは、善人も悪人も何の違いもないということが「最も悪いこと」だと言われているのです。

    <本論>
    1.善因善果、悪因悪果

    日本では、昔から仏教が盛んに信仰されてきましたが、仏教には、元々、「善因善果、悪因悪果」=「良いことをすればそれがもととなって必ず良い報いがあるということ。また、その逆」という考え方があって、それは「因果応報」ということばでよく知られています。しかし、現実の世界ではなかなかその通りにいくとは限らないわけです。それで、やがて「大乗仏教」というものが生まれ、それがさらに進んで、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗にまで至ったと言われています。人はこの世で善行を積むことによって救われるのではなく、ただ阿弥陀仏の本願に拠り頼むことによって救われる。ですから、親鸞の浄土真宗には妻帯や肉食の禁止というような戒律はないそうです。親鸞のことばをまとめた「歎異抄」という書物には、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(人は誰でも悪人であり、そういう人こそが信仰によって救われるべき対象なのだ)」という有名な一節があり、「悪人正機」ということばでよく知られています。私は仏教を深く学んだわけではありませんので、今お話ししたことはあくまでも付け焼刃にしかすぎませんが、何か新約聖書でパウロが言っていることと似ているような気がします。

    2.神を恐れよ

    さて、今朝の聖書に戻りたいと思いますが、本書の著者も、因果応報的な考え方を否定した上で、後半の7~10節では、刹那的な生き方を勧めているように見えます。先週の説教で、本書の主題は人生における価値の探求であるとお話ししました。私なんかが語るのもおこがましいような深遠なテーマなんですが、ここで伝道者は、結局、因果応報を信じて善行に励むのも、また逆に、そんなこと俺は信じないと言って、刹那的に、今さえ楽しかったらそれでええやん、と生きるのも、どちらも人それぞれ。その人なりの人生の価値の探求だと言っているようにも思えます。それでは、イエス様を救い主として信じる私たちは、どのように人生における価値を見出し、生きていけばよいのでしょうか?本書の結論は、最後の12章の13節後半にある、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」ということだと思うのですが、何か余りにも教科書的と言いますか、そこに至るまでの振幅の大きさから考えると拍子抜けするほどあっさりした結論と言えます。ですから、本書の場合は、結論よりも、そこに至る過程こそが大切なようにも感じるんです。それで最後に、自分なりに考え、示されたことをお話ししたいと思います。

    3.しあわせはいつもじぶんのこころがきめる

    先日、サラリーマン時代にお世話になった方の奥様から、主人が今年の夏、80歳で亡くなりましたという「喪中はがき」をいただきました。その方とは会社を辞めてからは年賀状だけのお付き合いでしたが、「そうか、亡くなられたんや」ということと同時に、そういえば、その方は、昔よく、相田みつをのことばを引用しておられたなぁ、ということを思い出しました。相田みつをという人は詩人で書家でもあり、独特のひらがなで短い人生訓のようなものをたくさん書き残した方です。「にんげんだもの」とかですね。その相田みつをが残した有名なことばに「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」というのがあります。少し前に、そんなことを考えながら家の近くを歩いていたら、ある神社の掲示板が目に留まりました。そこには、「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ 甲本ヒロト」と書かれてあったんですね。甲本ヒロトというのは伝説的なロックバンド「ブルーハーツ」のボーカルで岡山出身なんです。相田みつおも甲本ヒロトも、もちろんクリスチャンではありませんが、「なるほど。上手いこと言うなぁ。ホンマにそうやなぁ」と思わされたんですが、それでは、私たちにとって、幸せを感じることのできる心というのはどのようなもので、どのようにすれば手に入れることができるのか。私たちの周りには、
    「あの人は恵まれている」と思うような人でも、あんまり幸せそうには過ごしておられないように感じられる方もいれば、あんなに辛い大変な状況におられるのに、なぜか余り不平や不満、不幸というものを感じさせない方もおられます。その違いはいったいどこにあるのだろう、と考えたんですね。

    <結論>

    今朝の開会聖句をもう一度ご覧ください。

    『自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか』(マタイ20:15)。

    これはイエス様が話された不思議なたとえ話に出てくるぶどう園の主人が最後に言ったことばです。その主人はぶどうの収穫のため労働者を雇うんですが、朝九時から一日働いた人に一デナリ、たった一時間しか働かなった人にも一デナリを払うんです。否。今、一時間しか働かなかった、と言いましたが、正しくは、その人は仕事にあぶれて、働きたくても一時間しか働けなかったのですが。それで、先の労働者は主人に文句を言います。「不公平だ!」と。もっともです。この世の常識からすれば全くもってその通りです。しかし、その主人は、「私はあなたにも約束通りの賃金を払ったじゃないか。最後の人にも同じだけ払ったからといって、それは私のものから払うのだから私の勝手でしょ。私は気前がいいから、最後の人にもそのようにしてあげたいのだ」と答えたんですね。新改訳には、この「気前がいい」というところに※印があって、下の脚注には※直訳「良い」と書かれています。
    イエス様は山上の垂訓で次のように言われました。

    『あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか』(マタ7:9~11)。

    時々、「親ガチャ」という嫌な言葉を耳にしますが、確かに、私たちの人生は決して公平だとは言えないでしょう。また、時には、「まさか!」というようなことが起きることもあります。しかし、私たちは、どんな時でも、父なる神様は良い方であり、私たちに良いものを与えてくださる方であるということを信じ続けなければならないのです。なぜなら、その信仰、神様への信頼こそが、私たちキリスト者にとっての幸せを感じる心そのものであり、私たちの人生に価値を与えてくれるものだからです。その良い方の御名が崇められ、御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように、と今週も祈りつつ、歩みましょう。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:76番、メッセージ後:82番

    聖書交読

    詩編128篇 1~6節

    2022年教会行事

    12月14日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

    #54-2846

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