聖霊によるのでなければ

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 2章22~36節>
牧師:砂山 智

開会聖句

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

<コリント人への手紙第一 12章3節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:5/11 PM 7:45
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「使徒」には著者の名前は書かれていませんが、パウロの同労者で異邦人の医師であったルカとされています。そして、宛先の

『テオフィロ様』(使1:1)

という人物ですが、この名前は「ルカ」にも出てきます。「テオフィロ」とは「神に愛されている人」「神の友」という意味で、この人物が実在の人物であったかどうかについては議論があるそうです。学者の中には、ルカは、この二つの書簡を、ローマ政府の高官でクリスチャンであった人物に、或いはクリスチャンに好意的であった人物に宛てた手紙という体裁で書いたのだろうと考える人たちもいるそうです。ただ、特に今朝のテキストの「使徒」は、初代教会の成り立ちを知る上で大変貴重な資料であり、この後の大部分を占めているパウロの手紙の背景や執筆事情を知る上でも欠くことのできない資料と言えます。「使徒」を学ぶことによって、福音書で示されたイエス様の教えがどのようにして弟子たちに受け継がれていったのかということを。そしてさらに、彼らの伝えた福音が、どのようにしてユダヤ・イスラエルという狭い世界からローマ帝国全体という広い世界へと拡がっていったのかということをよく理解することができます。
さて、今朝の話は、先月の第二週の話の続きなんですが、その時の最後、

13節に、『だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた』

とありました。『新しいぶどう酒』とは、まだ十分に発酵しきっていない、アルコール分の弱い、甘いぶどう酒のことです。つまり、「こいつらは大の大人のくせに、そんな弱いぶどう酒を飲んで酔っ払っているのか」と嘲笑う者たちもいたということです。弟子たちは、聖霊に満たされ、他国のことば、異なることばで語り始めたのですが、その様子が余りにも不思議に見えたので、そんな風に嘲笑する人たちがいたんですね。

<本論>
1.青年は幻を見、老人は夢を見る

それを聞いて、ペテロが他の十一人の使徒たちとともに立ち上がって語り始めます。

『今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません』(使2:15)。

これは単に、「俺たちは朝っぱらから酒なんか飲んでないよ。酔っぱらってなんかいないよ」と言っているのではないんです。ユダヤ人は、「五旬節」のような祭りの日には、朝、会堂へ行って祈りをすることになっており、朝の十時以降でなければ決して飲食はしないという習慣があったそうです。ペテロは、我々もあなたがたと同じユダヤ人だから、ユダヤの伝統や習慣を無視するわけがない、と言っているのです。そして、その上で、彼は、旧約の「ヨエル」のみことばを引用します。2章17~21節です。※「ヨエル」2:28~32(P1556)。
このみことばは、終末の時代についての預言であろうと解釈されています。私たちクリスチャンにとって、終末の時代とは、イエス様がメシアとして来てくださった新約の時代のことです。その時代に、すべての神の民にわたしの霊、聖霊が注がれるということです。旧約の時代にも聖霊は働いておられましたが、それは例えばモーセのように、特別な使命(召し)を帯びた人にのみ注がれるものでした。しかし、新約の時代には、すべての神の民に、つまり、すべてのクリスチャンに聖霊が注がれるのです。そして、この預言の

『あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る』(同2:17)

というみことばなんですが、『幻(ホラシス)』というのは、英語では「ビジョン」と訳されます。それは、日本語で言うところの「夢幻(ゆめまぼろし)」とは違って、「洞察力・未来を見通す力・未来への展望」というような意味になります。昔、アメリカで人種差別に抗議し、公民権運動を指導したキング牧師は、説教の中で「私には夢がある(I have a dream)」と言いました。私たちは、あなたはどうでしょうか?『青年は幻を見、老人は夢を見る』。いくつになっても夢を見続ける者でありたいですね。

2.復活の証人

そして、今朝のみことですが。

『イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです』(使2:22)。

ペテロは、あの十字架につけられ、殺されたナザレ人イエスこそ、約束のメシア(救い主)であると言っているのです。あなたがたは、その方を、異邦人の力を借りて十字架につけて殺したけれども、神はその方を死からよみがえらせたのだと。そして、ペテロはさらに、ダビデの詩篇を引用します。それは「詩篇」16編、ダビデのミクタムという表題がつけられた詩篇です(旧約P945)。

『私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せにならないからです。あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります』(詩16:8~11)。

その上で、改めてはっきりと宣言するのです。

『このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です』(使2:32)。

<結論>
このペテロの姿はかつての彼とは別人のようですが、この彼の最初の説教は次のようなことばで締めくくられます。

『「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」』(使2:36)。

ペテロが言う「このことをはっきりと知らなければなりません」の「このこと」とは、その後の「すなわち」以下にある通り、キリストを十字架につけたのは、総督ピラトでもローマの兵隊でもなく、あなたがたなのだということです。それは、同胞ユダヤ人の罪をはっきりと指摘することであり、普通、考えれば、そんなこと、彼らにとって、到底、受け入れることのできないことだったでしょう。今朝の話はイエス様が十字架にかけられて僅か50日後の事ですから。一歩間違えれば、「こいつは何を言ってるんだ!」と怒りを買い、殺されてもおかしくなかったと思います。けれども、この説教を聞いた彼らの反応は、

『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った』(同2:37)。

そして、彼らはペテロたちの勧めに従い、悔い改め、バプテスマを受け、救われたのです。本当に不思議ですよね。

『ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません』(Ⅰコリ12:3)。

今朝の出来事と今の日本では、時代も人間も全く異なりますが、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできないということは同じでしょう。否、今の時代、今の日本ほど、聖霊の働きが必要な時代はないと思います。それこそが、私たちの夢、幻と言えるのかもしれません。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF98KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌20番、メッセージ後:新聖歌142番

聖書交読

詩編55篇 1~11節

2024年教会行事

5月8日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時

#56-2918

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