なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨハネの福音書 8章21~30節>
牧師:砂山 智
開会聖句
イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
<ヨハネの福音書 18章8節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・8章冒頭の11節までは有名な姦淫の女の話です。ただ、「日々のみことば」の執筆者の方も書いておられましたが、新改訳の脚注に、7章53節から8章11節までは古い写本に含まれていないとあるように、この話は後に挿入された話のようです。もちろん、そういうことも含めて、今の私たちはこの姦淫の女の話も聖書の一部と受け止めているのですが。ということで、元々の「ヨハネ」では、今朝の箇所も含め、8章12節以降は7章52節からの続きと考えていいでしょう。そのように読んでいくと、この福音書には、イエス様とユダヤ人たち、特に律法学者やパリサイ人たちとの論争が数多く記されているということに気づきます。今朝の箇所もそのうちの一つです。
1.わたしは上から来た者です
その長い長い論争の焦点は何かというと、それは
「あなた(イエス様)はだれなのですか」(ヨハ8:25)。
つまり、「イエス様は本当にメシアなのか」ということでした。なぜ、ヨハネがそんな長い論争を書き残したかと言えば、それこそが、彼がこの福音書を書いた目的であったからだと思われます。
『これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト(メシア)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである』(同20:30)。
ただ、今の私たちはそれが分かっていますので、今朝のやり取りを読んでも、イエス様のおっしゃっていることがなんとなくですが理解できるのですが、当時のユダヤ人たちには全く理解できない。ですから、チグハグと言うか、頓珍漢なやり取りが続きます。その典型が22節の彼らのことばです。
『そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」』(同8:22)。
イエス様は、「わたしは去って行きます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。それは、ご自分の父のもとに、栄光の座に戻られるという意味だったのですが、彼らは、「まさか、こいつは自殺でもするつもりなのか。俺たちの間では、自殺した者は地獄に落ちると言われているから、こいつの行くところに俺たちが行けないというのは当然だ」と思ったみたいですね。そんな彼らに、イエス様は次のように言われました。
『「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません』(同8:23)。
この「上」というのは天のことで、「下」というのは地、つまりこの世のことですが、「ヨハネ」には、「この世(コスモス)」ということばがよく出てきます。これは天の反対語ではありますが、天におられる父なる神と切り離されているわけではありません。何よりもまず、この世は神の被造物だと聖書は証言しています。けれども、なぜかは私たちには分かりませんが、この世は罪によって本来の姿からかけ離れたものとなってしまいました。しかし、神はこの世を造られただけでなく愛しておられましたので、人間を罪から救い、この世をその本来の姿に戻すために、ひとり子であるイエス様を遣わされた。あの聖書の中の聖書と呼ばれている本福音書3章16節のみことばの通りです。今朝のやり取りの中の
24節で、「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです」
とイエス様が言われたのは、そういうことですよね。
2.わたしはある
そして、この『わたしはある』ということばなんですが、聖書を日本語に翻訳した学者が、とりわけ頭を悩ましたことばの一つではないかと思われます。ですから、色々な訳が存在するのですが、ハッキリ言って、いずれの訳も、日本語としてはしっくりこない感じがします。新改訳の訳も「シュールな訳」とでも言えばいいでしょうか。その意味は、「現実を超越していて、真の理解が不能だというさま。理性による合理的な解釈ができないさま」。この『わたしはある』とは、原典のギリシア語では「エゴ―・エイミー」ということばです。英語では「I am」となりますが、旧約の「出エジプト」3章で、主がモーセにご自身を顕されたときに、
「わたしは、『わたしはある』という者である」
と仰せられたヘブル語に対応したことばです。そして、「ヨハネ」には、今朝の8章以外にも、何カ所か、同じことば(ギリシア語)が出てきます。例えば、前回お話しした6章の五つのパンと二匹の魚の奇跡のすぐ後、弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡る場面があります。彼らが乗った舟は強風で転覆しそうになるのですが、その時、イエス様は湖面を歩いて彼らに近づいて来られて、次のように言われるのです。
「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハ6:20b)。
この「わたしだ」が「エゴ―・エイミー」です。
そして、もう一つが今朝の開会聖句の18章です。これは、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられる場面でのことばですが、ここでは、実に三度も、このことばが繰り返されています。「わたしがそれだ」。5節(脚注を参照)、6節、最後が開会聖句の8節です。今朝の開会聖句8節の後の9節にはヨハネの説明があります。
『これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった』(同18:9)。
このみことばの「」の部分は、やはりヨハネが引用したイエス様のことばですが、脚注にその引用元と思われる箇所が、二箇所、紹介されています。その一つ、6章39節をご覧ください。
『わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです』(同6:39)。
イエス様は、三度も「わたしがそれだ(エゴ―・エイミー)」と言われて弟子たちを守り、やはり、ご自身が神の子キリストであることを証しされたのです。
<結論>
『わたしはある』。そのお名前には、シュールで哲学的な響きがあり、私たち人間の理解を遥かに超えたお名前と言えますが、もしかしたら、イエス様は、そのように名乗ることによって、ご自身の名前を、私たち人間が勝手に自分に都合の良いように利用しようとすることを拒否されたのかな、と感じました。実際、本福音書にも、人々がご自分を王にしようとするのを見て、お一人で山に退かれたことが記されていますが、あのモーセの十戒に、
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」(出エ20:7)
とありますから。ただ、それと同時に、『わたしはある』というお名前は、あの転覆しそうな舟の上で恐れおののいていた弟子たちの恐れを取り除き、ゲッセマネの園で捕まりそうになっていた弟子たちを守った、イエス様の愛のことばでもありました。
私たちも、「わたしはある」と名乗られたイエス様に勇気をいただき、その愛のことばに守られながら、今週も歩んで行きたいと思います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌102番、メッセージ後:新聖歌337番
聖書交読
詩編3篇 1~8節
2025年教会行事
3月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-301④