つなぐこと解くこと

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネの福音書 20章19~31節>
    信徒:K

    開会聖句

    まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

    <マタイの福音書 18章18節>

    メッセージ内容

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・今日から受難週です。十字架を目前にしたイエスさまの苦悩を特に覚えます。このことで、一つの思い出があります。宝塚にある「黙想の家」に行ったときのこと。広い敷地に、洋風のカトリック修道院と、和風の大きな一軒家があって、入り口から喋ってはいけません。借りた一室では自由ですが、昼食も食堂で黙々といただきます。昼からの個人行動の時間は、自然豊かな庭を散策しながら自由に祈ります。敷地内の小高い山に「十字架の道」というコースがあり、イエスさまがゴルゴダに向かうところから復活までを描いた15枚の陶板画が道しるべでした。イエスさまの苦悩を覚えながら、山を登るのです。私も始めはそのようにしましたが、何かが飛び出してこないか、この道でいいのかと不安で不安で、イエスさまを覚えるどころではありませんでした。先月はアリマタヤのヨセフとニコデモによる葬り、最初にイエスさまが姿を現わされたマグダラのマリアだったという話でした。今日はいよいよ弟子たちとの対面です。そこで、話された2つのことをお話します。「見ないで、信じる者になりなさい。」「赦しなさい。」

    <本論>
    I.見ないで、信じる者になりなさい

    今日はトマスという弟子が出てきます。彼の代名詞は「疑い深い弟子」。不名誉な代名詞ですが、彼のおかげで、私たちは「見ないで信じる人たちは幸いです」というイエスさまのことばを聞くことが出来るのです。19~20節。弟子たちはユダヤ人を恐れ鍵をかけて家に閉じこもっていましたが、そこにイエスさまが入って来られ、彼らの真ん中に立たれました。信じられないという表情の弟子たちに、その手と脇腹の傷を見せてくださいました。そのとき、トマスは彼らと一緒にいませんでした。弟子たちは戻ってきたトマスに、口々に興奮しながら、イエスさまは復活されて、会いに来られたと話しました。それを聞いて、彼は

    25節「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」

    と強い口調で言いました。なんとなくわかりますよね。周囲で盛り上がれば盛り上がるほど、ついていけない自分が冷めていく感じ。一同が口を揃えて「私たちは主を見た」という発言をすればするほど、ガンと受けつけない態度。でも、納得できないことに妥協しない正直さも感じます。大体、他の弟子たちだって、見たから信じてるわけですから。ヨハネ福音書には、最初にもう一人ナタナエルという疑い深い弟子が登場しています。1章で、ガリラヤの漁師であるアンデレとヨハネが、ヨルダン川の近くで、イエスさまに最初に出会った頃のことです。

    二人の「メシアに会った」という興奮は、同郷の仲間たちに広がり、次々にイエスさまを見に行くのですが、このビッグニュースをピリポから伝えられたナタナエルは「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と、とても冷めた反応をしました。それは当時の常識でした。でもイエスさまに会って信じました。このナタナエルのために、イエスさまは彼が来るのを待っておられ、「この人には偽りがない」とほめられましたし、トマスのためには、八日後にもう一度来てくだり、傷跡に触らせようとされました。そして、

    27節「信じないものでなく、信じる者になりなさい」

    と言われました。その後のトマスの

    28節「私の主、私の神よ」

    (オーマイゴッド)という信仰告白と、イエスさまの

    29節「見ないで信じる人たちは幸いです。」

    ということばが、ヨハネが伝えたいことであり、

    31節「これらのことが書かれたのは…イエスの名によっていのちを得るためである。」

    と締めくくられます。ヨハネ福音書はここで終わりというのが定説です。告別説教

    17:20「この人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人」

    とか、良い牧者のたとえ

    10:16「わたしにはこの囲いに属さない他の羊たちがいます」

    でふれられているように、その人たちは皆、見ないで信じる次世代のクリスチャンたちです。イエスさまを見たことがないということが、信じるということにとって、少しも困ること、不利なことではないことを、イエスさまは約束されたのです。

    ローマ人への手紙

    10:17に「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

    とあるように、信仰はイエスについてのことばを聞くことから始まります。私たちは、見た方が力になると思います。しかし、実際見たために、多くのユダヤ人はつまずきました。それは、肉の目で見たからで、彼らの目に映ったのは、地方の大工の息子、十字架で処刑された哀れな男でした。神さまの計画では、イエスさまを信じるために必要なことは、目で見ることではなく、約束された助け主聖霊の助けです。聖霊は新しいことを語るのではなく、イエスのことば(神を説き明かす、真理)を思い出させる働きをします。聖霊に求め、教えられて聖書に聞きなさい。そして信じなさい。それで十分だ、とイエスは言われるのです。

    II.赦しなさい

    復活のイエスさまの体は不思議な身体でした。ルカ(24章)では、弟子たちが幽霊かと不思議がるので、手と足を見せ、焼き魚一切れを食べて安心させられたとあります。そして

    21~23節に戻ります。「…父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。…聖霊を受けなさい。…あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

    これはヨハネの弟子派遣命令で、マタイの大宣教命令にあたります。マタイ

    28:19~20「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」「弟子にしなさい」と「命じておいたことを守るように教えなさい」

    という命令です。

    ルカでは(24:46~49)、「キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えなさい」

    、十字架の赦しを宣べ伝えなさいという命令です。そしてヨハネの23節は一番ストレートな命令だと思います。

    「あなたがたは赦しなさい。」

    そして、その使命のために、昇天を待たず、この場で弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を与えられました。創世記で神が人間にいのちの息を吹込んだように。

    今日の開会聖句はマタイ

    18:18「…何でも地上でつなぐことは天でもつながれ、…地上で解くことは天でも解かれるのです。」

    つなぐというのは、罪を赦さないでおくことで、地上で赦されないと天でも赦されない。解くのは赦すことで、地上で赦されると天でも赦されていると言われるのです。これは大変なことです。私たちは神の代理というわけで、大きな責任が与えられています。マタイでは、このあとに、王に一万タラント(約六千億)の借金を赦されたのに、仲間の百デナリ(約百万)の借金を赦さず、牢にぶち込んだ家来のたとえ話があります。赦してもらえなかった人、つまりつながれたままの人は、牢につながれることになりました。とても分かりやすいたとえです。人に「神に赦されてますよ」と伝えるのは簡単ですけど、実際自分が赦すというのは、難しいことです。痛みが伴うからです。(ちょっと迷惑をかけたという程度のものから、身体や人格を傷つけた場合。こじれた国と国との関係。)また逆に赦される方にも問題があります。「赦されるようなことした?」という反応もあるからです。まだ、同じ土俵に上ってさえいないのです。私は「赦し」というのは壊れた関係の修復のための一歩だと思います。

    私たちは信仰告白で「平和の民」とあるように、平和を重んじます。メノナイトの人たちは兵役のとき、武器をとらずに、代わりに看護とか運搬の仕事についたりしました。また日常では、敵対者同士が歩み寄れるような分野で活躍しています。例えば、犯罪者と被害者の関係の修復です。専門の学びと訓練を積んだ人が、当事者同士が互いの思いをぶつけ、痛みを表し、理解を深めて、和解につながるように支える働きです。刑期を終えて終わるのではなく、釈放された人が再び罪を犯すことなく社会で生きていくためのプログラムで、修復的正義と言います。これは特殊なケースかも。しかし、私たちは教会でも、またそれ以外の社会でも、人と人との関係の中で生きてるので、怒りや痛みの感情を日常的に経験します。そもそも、人と人とは衝突するもので、傷つけたり、傷つけられたりします。そんな私たちの罪を神は赦されて、アイムOK、ユーアーOKと受入れてくださいました。しかし、共に生きるとき、それではぶつかることがあります。教会は、個人が徳を積み、出来た人間になって平和なのではなく、互いを知って驚き、理解しようと葛藤し、赦し赦される関係で成り立つものではないでしょうか。

    <おわりに>

    十字架によって、生涯かけても払えない借金を赦された人のように、私たちは赦すことを任されていますが、時間のかかることもあります。でも、赦そうという思いに神は寄り添われます。相手の思いも理解できるようになったり、自分の正直な思いも出せるようになったりして、私たちは神さまに変えられていくのだと思います。赦すということは、私たちに委ねられたことであり、特権でもあるのです。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF242KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:109番、メッセージ後:356番

    聖書交読

    詩編49篇 1~8節

    2024年教会行事

    3月27日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

    #56-2913

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