イエスの福音と神の国

メッセージ

<マルコの福音書 1章1~15節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

<マルコの福音書 1章15節>

メッセージ内容


<序論>  
・「マルコの福音書」は新約聖書にある二番目の福音書です。昔は、四福音書の中で一番、重視されていなかったそうです。しかし、近年の聖書研究によって、この福音書が四つの福音書の中で最初に書かれたのではないかという見方がされるようになり(但し、新約聖書全体の中で最初ということではありません)、特に、「マルコ」とともに共観福音書と呼ばれている「マタイ」と「ルカ」は、「マルコ」ともう一つの資料(イエスの言行録)を基にして書かれたのではないかと考えられるようになって、とても注目されるようになりました。この福音書の本文には、著者は(ヨハネ)マルコです、とは書かれていませんが、伝承によって「マルコの福音書」と呼ばれるようになったようです。彼の名前は、「使徒の働き」12章以降や、パウロやペテロが書いた手紙にも出てきますが、十二使徒の一人ではありませんでしたし、イエス様の公生涯の目撃者でもありませんでした。ただ、それらの記事から推測できることは、彼は母マリアの影響で、幼い頃から初代教会の中心的なメンバーと密接な交流があり、特に、ペテロとは非常に身近な関係にあったのではないかということです(ペテロの通訳者)。それゆえ、この福音書は、ペテロが語った内容を基にして、マルコが書いたものだと考えられています。

<本論>
1、神の子、イエス・キリストの福音のはじめ

この福音書にはイエス様誕生の物語はありません。しかし、この冒頭のことばがとても印象的で、ストレートに、また強烈に迫ってくるように、私は感じました。

『神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。』(マルコ1:1)。

マルコはまず、自分自身の信仰告白からこの福音書を書き始めます。この冒頭のことばを読んで思ったことは、私たちにとって大切なことは、イエス・キリストについての一般論ではなく、この自分がイエス様とどのように出会ったのか。そして、今、どのようにイエス様と歩んでいるか、ということではないかということでした。確かに「福音書」というのは、イエス・キリストの伝記と言えますが、そこには四人の著者たちを通して啓示されたイエス様の姿があり、その著者たちの信仰告白が書かれています。あなたはいかがでしょうか?聖書を読むときに、一般論として、何か「名言」や「教訓」を読むような気持で読んではいないでしょうか。「マルコ」8章には、イエス様が弟子たちに、

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

と尋ねられたとあります。その時、ペテロが代表して

「あなたはキリスト(メシア・救い主)です」(同8:29)

と答えたのですが、それと同じように、聖書のみことばは今朝も、あなたの信仰告白を求めているのではないでしょうか。

さて、1節の最後に「福音のはじめ」と書かれています。福音とは、良い知らせ(グッド・ニュース)という意味ですが、この「はじめ」と訳されていることばには、時間的なはじめという意味だけでなく、「源・根源」という意味も含まれています(岩波訳聖書)。最近、新型コロナのニュースばっかりで、気分も落ち込みがちになってしまいますが、私たちにとっての良い知らせ、その源はイエス様だけです。この世からの知らせは、良くなったり、悪くなったり、ジェットコースターのように目まぐるしく移り変わり、私たちは翻弄されてしまいますが、イエス様はそうではありません。

『イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることはありません』(へブル13:8)。

2、 悔い改めてのバプテスマ

そして、2,3節には、旧約聖書のことばが引用されています。マルコは、預言者イザヤの書にと書いていますが、厳密には、2節は「マラキ書」からで、3節が「イザヤ書」からの引用です。これはマルコが間違っているのではなく、このような場合には、有名なほうの名前だけを記すのが慣例であったようです。そして、マルコは次のように書きます。

『そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた』(同1:3b~4)。

バプテスマのヨハネが宣べ伝えたのは、悔い改め(メタノイア)のバプテスマであった。私たちの教会では、今からちょうど一年ほど前に、「創立50周年」の記念礼拝が行われました(ちなみに、今日の礼拝は2700回記念です!)。その中で、この「メタノイア」ということばについてお話ししました。それは「メタ(変更・変化)」と「ノエオー(認識する・考える)」という二つのことばを合わせたものであり、「後悔する」とか「懺悔する」というような意味ではなく、「方向転換する」或いは「視点を変える」という意味であると。バプテスマのヨハネは、同胞であるユダヤ人に、まず、いの一番に、それまでの視点を変えるようにと求めたのです。そのことによって、あなたがたは、今まで見えていなかったものが見えるようになるだろうと。それまでユダヤ人たちが考えていたことは、悔い改めのバプテスマを受けなければならないのは自分たちではなく、異邦人のほうだということでした。彼らの視点は、自分たちこそ神に選ばれた民族(義人)であり、異邦人は汚れた民族(罪人)であるのだから、彼らこそ悔い改めるべきだということでした。しかし、イエス様もそうでしたが、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマは、彼らにそのような視点からの方向転換を求めるものでした。まさに、ユダヤ人にとっては「コペルニクス的転回」と呼べるようなものだったのです。そして、そのことによって、バプテスマのヨハネは、神の国とは、つまり本当の神の支配とはどのようなものであるのかということを明らかにし、イエス様のための道備えをしたのです。

<結論>

教団の「よきおとずれ」今月号の巻頭言は、石橋教会の南野浩則師でした。「ルカの福音書」17章に、イエス様の興味深いことばがあります。

『パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見えるような形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです』(ルカ17:20,21)。

難解なことばですが、南野師は、このことばを、神の国(支配)とは、人間の心の中にあるというような、人間の内面の課題としてとらえてはいませんでした。そうではなくて、人間同士の関係性の中に、神の国(支配)が拡がり、実現してゆくこと。それこそが、イエス様の福音であり、「あなたがたのただ中にある」ということばの意味なんだ、と述べておられました。そして、そのことをお伝えする方法、つまり伝道方法も、従来型の、神を知らない人たちの罪を指摘する(罪人扱いする)ことから始めるのではなくて、この世の国の価値観と全く違う神の国の価値観をお伝えすることから始めましょう。そして、聖書の神を知らなくても、既にそのような価値観に生きている、或いは生きようとしている人たちもおられますので、そのような人たちとは連帯や協働(協力して働く)の関係を築いてゆくことから始めましょうと。そして、最後に、そのような柔軟性こそが、これからの時代に相応しい伝道方法であり、人間同士のあり方に神が働くという、そこに伝道の基本を見出したいと。
今朝、神様は、あなたにも、今日のユダヤ人たちと同じように、「メタノイア」=視点を変えることから始めなさい、と言っておられるのではないでしょうか。
祈りましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:259番、メッセージ後:474番

聖書交読

詩編 10篇1~18節

2019年教会行事

3月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操→お休み
※「オリーブいきいき百歳体操」は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を抑制するため、
3月中はお休みとさせていただきます。皆様のご理解とお祈りをお願いいたします。

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