彼らの信仰を見て

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<マルコの福音書 2章1~12節>
牧師:砂山 智

開会聖句

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

<マルコの福音書 2章5節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:3/2 PM 23:05
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「マルコ」は新約における二番目の福音書で、昔は、四つの福音書の中で一番重視されていなかったそうです。しかし、近年になって、この福音書が四つの福音書の中で最初に書かれたもので(但し、新約で一番最初ということではありません)、ともに共観福音書と呼ばれている「マタイ」と「ルカ」は「マルコ」ともう一つの資料(イエス様の言行録「Q資料」)を元にして書かれたのではないかと考えられるようになって、俄然、注目を集めるようになりました。この福音書が「マルコの(による)福音書」と呼ばれるようになった理由は伝承によるもので、福音書の中に著者の名前は出てきません。マルコという人は、「使徒の働き」12章以降(「マルコと呼ばれているヨハネ」使徒12:12)や、パウロやペテロの手紙に出てくるのですが、十二使徒の一人ではありませんでしたし、イエス様の公生涯の目撃者でもありませんでした。ただ、それらの箇所から分かることは、彼の母はマリアと言い、教会の熱心なメンバーであったということ。そして、そのお母さんの影響で、マルコは幼い頃から十二使徒を始めとする初代教会の中心的なメンバーと顔見知りで、特にペテロとは、とても親しい関係にあったと思われることです(ペテロの通訳者?)。ですので、多くの学者は、この福音書は、ペテロが語った内容を元にしてマルコが書いたのであろう、と考えています。

<本論>
1.どちらが易しいか

今朝の話の舞台はカぺナウムにあった家なんですが、この家はペテロの家であったのではないかと考えられています。そこにイエス様がおられることが知れ渡ったので、大勢の人たちが集まって来たんです。そこに一人の「中風の人」が連れて来られます。「中風」というのは、今では、聖書以外では余り使われなくなった病名でしょう。その人は恐らく歩くことが難しかったので、床に寝かされた状態で四人の人たちに担がれて来たんです。ただ、大勢の群衆のために近づくことができなかった。それで彼らは、家の屋根をはがし、穴を開けて、そこから中風の人が寝ていた寝床ごとつり降ろすという、強引とも言える方法でイエス様に近づこうとしたわけですが、今朝の話は、私がクリスチャンになって長い間、よく分からなかったというか、何となく分かったような、分からないような…そんな点がいくつもある話でした。その一つは、イエス様が彼らにかけた最初のことばが

『子よ、あなたの罪は赦された』(マルコ2:5)

ということばであったということです。彼らがやって来たのは罪を赦してもらうためではなく、中風の人をいやしてもらうためでした。そのために、今さっきお話ししたような方法で、必死のパッチでその人を連れて来たんです。それなのに、何かイエス様のことばはチグハグのように思えたんですね。さらに、分からなかったことは、9節にある、

『中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか』(同2:9)

というイエス様からの問いかけです。その答えはどっちなんでしょうか?イエス様ははっきりとした答えを言われませんでした。もちろん、どちらも易しいことではないのですが、ただ、病のいやしというのは一時的なことです。福音書には、病人がいやされた話や、「ヨハネ」には、ラザロという人が死んでいたのに生き返ったという話まで記されていますが、死んで生き返ったラザロも、その後、永遠に生き続けたわけではないですよね。イエス様がいやしてくださった人も、いつかまた病気になったかもしれませんし、そうじゃなくても、やがては年老いて死んでしまったでしょう。それに対して、罪の赦しというのは一時的ではなく、永遠のことです。神のひとり子であった方が、あの十字架の上で殺され、私たちの罪を贖ってくださった。そして永遠のいのちを与えてくださった、と私たちは信じています。そのように考えると、やっぱり「罪の赦し」のほうが難しいということなんかなぁと、長い間、そのように考えてきたんですが、そうではなかったんですね。「日々のみことば」の執筆者の方も書いておられましたが、「起きて、寝床をたたんで歩け」というほうが難しかったんです。なぜなら、罪が赦されたかどうかは、私たち人間の目には見えない、分からないことですが、寝たきりだった人が寝床をたたんで歩き出すということは、はっきりと目に見えることだからです。「あなたの罪は赦された」と言うだけなら、誰にでも言えるんですね。実は、この問いかけの背景には、当時のユダヤの常識というか、一つの偏見があったんです。それは、すべての病気は、本人や両親、或は、先祖が犯した罪の結果であるという偏見です。ユダヤ教の教師であるラビがそのように教えていたんですね。ですから、病がいやされるためには、まず罪が赦されなければならない、と考えられていたんです。今朝の場面で中風の人を担いできた四人の人たちは、恐らく、その人の家族か血縁の人たちであったと思われます。彼らは、自分たちの身内に中風の人がいたために、世間から「あの家は罪人の家だ」と見られて、苦しんできたのでしょう。イエス様は、そんな彼らに向かって、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたんです。それは、「神の子であり、救い主であるこのわたしが、あなたの罪は赦されたと宣言する。だから、もう何も心配しないでいいんだよ」ということであり、そのことをイエス様は、その人の病をいやすという、誰でもハッキリと分かる形で示してくださったのです。

2.彼らの信仰
ただ、もう一つ。私には以前から不思議に思っていたというか、腑に落ちないことがあったんですが、それは5節のみことばなんです。

『イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた』(マルコ2:5)。

ここで、「イエスは彼らの信仰を見て」と書かれています。「その中風の人の信仰を見て」とは書かれていないんです。
「ローマ」10章10節には次のようなみことばがあります。

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです』(ローマ10:10)。

今朝の場面で、中風の人自身がイエス様を信じたとか、そのことを自分の口で告白したとは書かれていません。いや、その人は確かに口では告白できなかったかもしれないけれども、心の中ではイエス様のことを信じていたのかもしれません。きっと、そうだったとは思うのですが、イエス様が言われたのは、「彼らの信仰を見て」なんです。信仰というのは、神様とその人個人との、極めて個人的な問題というか、関係を言うのだとずっと思ってきた私にとっては、ちょっと意外な感じがしたんです。しかし、ある時、一つのみことばを通して、その疑問が解けました。それは、「ルカ」17章にあるみことばです。17章20~21節をご覧ください。

『パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに言われた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」』(ルカ17:20~21)。

この場面で言われている「神の国」とは、「神のご支配」「神が治めておられる世界」と言い換えることができますが(マルコ1:15)、それはさらに言うと、「神の価値観が実現する世界」ということかと思います。イエス様は、そんな世界は、「あなたがたのただ中にある」とおっしゃったんです。それは、神の国とは一人一人の人間の心の中にあるというような、極めて個人的な内面の世界にあるということではなくて、私たち人間同士の関係性の中にこそ、神の国(支配)は拡がり、神の価値観(みこころ)は実現してゆくんだ、ということなんです。ですから、イエス様は、中風の人はもちろんですが、彼を担いできた四人の人たちも合わせた、五人の人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたのかなぁと。それは、彼らの関係性の中に、確かに神のご支配がある。そこで神のみこころが行われていると認めてくださったということですよね。

<結論>
私たちは、昔に比べると、はるかに個人の価値観が重視される個人主義の時代に生きています。今、お話しした、私が以前から不思議に思ってきたということも、そんな個人主義という価値観が自分の中に強くあったからだと思わされたんですが、信仰の世界でも、私たちのようなプロテスタント教会では神様と個人との関係が強調されてきました。それは特に、「国教会」から離れて「自由教会」と呼ばれた我々メノナイトにそのような傾向が強いのかもしれませんが、しかし、その一方でと言うか、だからこそ、我々メノナイトは、お互い助け合いながら自分たちの信仰の共同体を大切にしてきたわけです。これからの時代、教団や、それぞれの教会の在り方も変わってくると言うか、変わらざるを得ないのですが、イエス様は、彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。私たちも、そのことを忘れずに、歩んで行きたいですね。祈りましょう。

メッセージ要約のダウンロード(PDF92KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌275番、特別讃美後:新聖歌453番

聖書交読

詩編41篇 1~13節

2024年教会行事

2月14日(水)  オリーブいきいき百歳体操 10~11時

#55-2907

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