なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 22章9~19節>
牧師:砂山 智
開会聖句
約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
<ガラテヤ人への手紙 3章16節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開をいましばらくお待ちください。
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今年の「日々のみことば」は「創世記」から始まりました。ですから、説教も「創世記」から始まりましたが、2月から先週のイースターまでは「ヨハネ」からでした。そして、今月の残りと来月は、また「創世記」からになります。今、K姉が、月に一回「創世記」から語ってくださっていますが、前回は、ちょうどアブラハムの最初の頃の話でした。「初心者マークのアブラハム」。それが、今朝の話は、私が持っている「チェーン式聖書」の脚注を見たら、アブラハムの生涯のクライマックスと書かれていました。1節をご覧ください。
『これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた』(創22:1)。
1.アブラハムの信仰
アブラハムは、それまでの人生においても数々の試練を経験してきましたが、今朝の試練は、まさにクライマックス。生涯、最大の試練と言えました。なぜなら、彼にとって、他の何物にも代えがたい存在であった跡取り息子イサクを、全焼のささげ物として、いけにえとして献げよという命令を神から受けたからでした。アブラハムの奥さんはサラ(サライ)でしたが、二人の間にはずっと子どもがありませんでした。それで、アブラハムが76歳になった時、サラは女奴隷ハガルを側室にするようにと勧め、イシュマエルが生まれます。しかし、主は、アブラハムとサラを顧みられ、アブラハムが100歳の時に、嫡子イサクを与えてくださいます。サラはアブラハムより10歳年下でしたので、90歳で子どもを授かったということになります。年を取ってからの子どもは格別にかわいいと言われますが、二人にとってイサクはそれ以上の存在であったと思われます。それは、神からの特別な約束のしるしだったからです。12章に、最初の約束、アブラハム契約とも言われますが、それが出てきますが、神は、その後も、より具体的な祝福の約束を何度か告げられます。15章では、「ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの後を継がなければならない」と言われ、天の星を見せて、「あなたの子孫は、このようになる」。そして17章では、「あなたの妻を祝福し、必ず男の子を与える。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる」とまで告げられるのです。アブラハムとサラは、最初、心の中で嘲うほど半信半疑でしたが、主はその約束通りに素晴らしい跡取り息子をお与えになります。そして、その名をイサク(「彼は笑う」という意!)とせよと言われたのです。それなのに、なぜ?
今朝の22章を読んで私が感じたのは、アブラハムの心の中の思いというか、彼の心の動きが伺えるような描写が一切ないということです。今も見たように、他の箇所では、心の中で嘲ったことまで記されているのにです。不思議ですよね。普通だったら、「ええー?そんな殺生な!!」「なんでそんなこと言われるのですか?私には信じられません!!」と、心の中で思ったとか、そんな説明があってもよさそうなんですが、アブラハムは、一切、何も言いませんし、彼がどう思ったかという説明もありません。ただ淡々と神のことばに従っているように見えます。しかし、そうであればあるほど、より一層、彼の心の中の苦悩と言いますか、言いようのない悲しさが現れているように、私には思えました。私たちも、なにか思いがけない天災や事故、病気のために、愛する人を失うという経験をされた方から、「悲しさが余りにも大きすぎて、もう涙も出なかった」ということを聞くことがありますが、この時のアブラハムもそうだったのかなと。ただ、それはあくまでも、私が感じたことですので、彼は、その素晴らしい信仰で、神のみことばにただひたすら従おうとしただけだったのかもしれないのですが。
2.イサクの信仰
そして、もう一つ思わされたことが、イサクの信仰です。恐らく、この時、彼は青年期に達していただろうと思われます。ですから、父アブラハムが自分に何をしようとしているのか、気がついていたことでしょう。しかし、彼は、父がしようとすることに素直に従いました。それはイコール、神に従うことであったわけですが、本当に驚くべき信仰です。
「日々のみことば」今月号を執筆された武田師は次のように書いておられました。
「このような深刻な状況下、この親子は、「お父さん」「わが子よ」という人格的なことばが交わされているのですが、どう理解したらよいでしょうか。私たちは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」(へブ11:19)のみことばによって、この箇所を読むことができることを感謝しましょう。アブラハムはキリストの復活など全く知らないばかりか、倫理基準も曖昧な時代に、復活を信じたのです。また、この眼前のイサクを通して約束の子孫は必ず実現すると信じていたのです。」
それは、アブラハムだけでなく、イサクも同じだったのでしょう。否、そこまで彼が理解していたかどうかは分かりませんが、少なくとも、神への揺るぎない信頼がイサクにもあったということは言えるでしょう。先週はイエス様の復活を記念するイースターでした。今の私たちは、新約の光を通して旧約を読むことができます。それは、私たちの教団、日本MBの信仰告白に、
「聖書解釈の基盤は、新約聖書に示されたキリストである。それは、イエスの生涯・死・復活を通して明らかにされた神の価値観に基づいて聖書を解釈することである」
とある通りです。ですから、私たちは、今朝の12節にあった御使いのことば。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」ということばから、新約の「ヨハネ」3章16節のみことばを思い起こすことができるのではないでしょうか。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハ3:16)。
神は、アブラハムが神を愛した以上に、世を、この私たちを愛してくださり、ひとり子であるイエス・キリストを与えてくださいました。今朝の場面で、イサクの代わりに一匹の雄羊がいけにえとして献げられましたが、神はひとり子であるイエス様を、惜しむことなく、私たちの罪のために、私たちを死からいのちへと移すために、あの十字架の上で屠ってくださったのです。ここに神の偉大な愛があります。
<結論>
今朝の開会聖句の少し後には次のように記されています。
『あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです』(ガラ3:26~29)。
アブラハムは、以前はアブラム(高められた父)と呼ばれていましたが、アブラハム(多くの国民の父)と呼ばれるようになりました(創17:5)。それは神が彼に「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創12:3b)と告げられた約束が必ず成就することのしるしでした。アブラハムの末とされたことに、心から感謝します!
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌388番、メッセージ後:新聖歌67番
聖書交読
詩編9篇 1~12節
2026年教会行事
4月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3020