なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 32章22~32節>
牧師:砂山 智
開会聖句
父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
<(マタイの福音書 5章45節後半>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・前回、お話ししたように、ヤコブは父イサクを騙して長子が受けるべき祝福を手に入れました。しかし、そのことによって兄エサウから憎まれ、命を狙われるようになってしまいます。それを知った母のリベカ(共犯関係)はヤコブに逃げるように勧め、彼は叔父のラバンが住む地に逃れて行きます。リベカは、しばらくすれば兄エサウの怒りも治まり、また戻れるようになるだろうと考えていたようですが、現実はそんなに甘くはありませんでした。ヤコブは、結局、20年もの間、叔父ラバンの下で働くことになります。その間の出来事は31章までに記されていますが、叔父ラバンも、ヤコブと同じように狡猾な人物で、煮ても焼いても食えないような奴でしたので、お互い狐と狸の化かし合いのようなやり取りが続きます。やっぱり「類は友を呼ぶ」ということなのでしょう。ただ、ヤコブはしぶとく、したたかです。最終的にラバンとの駆け引きに勝利し、妻たちや子どもたち、そして、多くの財産を手に入れます。そして、故郷へ帰ってくるのですが、それが今朝のテキストまでの話です。
1.夜明けまで格闘した
今やヤコブはひとかどの族長のような貫録を身に着けた人物に見えたことでしょう。しかし、その心中は穏やかではありませんでした。彼にはよく分かっていたからです。そこに兄エサウがいるということが。そして、自分がかつてエサウに何をしたかということも。ヤコブはエサウの自分に対する怒りを想像して強い恐怖を抱いていました。それは当然のことだと思います。彼はそれだけのことをしたのですから。ヤコブは、一体、どうすれば兄は自分のことを赦してくれるだろうかと、そのことで頭の中が一杯でした。今朝の箇所の少し前には、そんなヤコブが必死になって考えた末にひねり出した「三段重ねの策(?)」で兄をなだめようとする様子が描かれています。それは用意周到といえばそうかもしれませんが、いかにも彼らしいと言うか、ヤコブが思いつきそうなことでした。とにかく、彼は打てるだけの手は打った。自分が最善と思われる策を行い、妻たちや子どもたちを先にヨルダン川を渡らせ、自分一人がヤボクの渡し場に残ったのです。その時、驚くべきことが起こります。
『ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した』(創32:24)。
この『ある人』とは、神ご自身、或いは、その御使いと考えて間違いないと思いますが、それよりも、今朝、覚えたいことは、この出来事は間違いなくヤコブの生涯の一大転機となったということです。この出来事を通して、彼はヤコブ(押しのける者)からイスラエル(神と争って勝利した者)へと造り変えられます。つまり、この格闘はヤコブの回心の時であったということですね。
それまでのヤコブは、まさに、その名前の通りの人物でした。彼は、父から受ける祝福の価値を兄よりはるかに理解していましたが、それを騙して奪ったのは、結局、己の利益のためでした。すべてにおいて「自分ファースト」。己の利益の為には何でもする、神さえも利用する者でした。けれども、神はそんなヤコブをお見捨てにならずに、ご自分のみこころに適った者となるように、彼と格闘してくださったのです。
2.身に帯びたしるし
そして、もう一つ、今朝の場面で心に留めておきたいことがあります。それは、神はヤコブのももの関節を打つという方法で、彼の身体にそのしるしを刻みつけられたということです。神は、ヤコブの回心を一時的な感情のように終わってしまうものではなく、永続的なしるしを伴うものとされたのです。ヤコブにとっての明らかな変化は、この出来事以降、足を引きずるようになったということでした。それは、彼の強烈すぎる自我が神によって打ち砕かれたことを示すはっきりとしたしるしでした。彼は、そのしるしを、生涯に渡って、死ぬまで自分の身に帯びることになったのです。ここで初めて「イスラエル」という呼び名が出てきます。
『その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」』(創32:28)。
新改訳聖書の脚注に、「イスラエル」とは「神は戦う」「神と戦う」という意味とありますが、ある旧約学者は、このことばは「神勝ちたもう」とも解釈できると述べておられました。信仰生活とは、神が勝ちたもう人生を生きることだと。すべてを神に委ね、自分の思いではなく、神のみこころが優先される。それは私たちにとって決して簡単なことではありません。私たちも、ヤコブとまではいかなくても、それぞれ「自分ファースト」で生きていますので。けれども、私たちが神勝ちたもう人生を生きるとき、今朝のヤコブと同じように、神のご栄光を拝することができるのです。
<結論>
そして最後に、今朝のタイトル「悪人にも善人にも」ですが、ヤコブは悪人か善人か、と問われたら、どうでしょうか?私には、どちらかと言えば悪人のように思えるのですが、しかしそれは、人によって見方は違うでしょう。K姉の卒業式で、「時が良くても悪くても」というタイトルでお話ししたのですが、時が良いか悪いか。或いは、人が善人か悪人かということは、人間の主観的な評価の問題で、また、相対的な比較の問題でもありますので、人それぞれと言えるでしょう。しかし、神はヤコブを選び、祝福の基とされました。それは、私たち人間にははかり知ることのできない神のみこころであったわけです。そして、だからと言うか、私たちが本当にそう信じるのなら、決してあってはならないことがあります。それは、自分こそが善で、神の側に立ち、その一方で、人を悪と決めつけ、神の敵として攻撃することです。
月に一度、北海道メノナイトの方が「かけはし」という機関誌を送ってくださいます。その中の「アメリカ通信」という欄に、先日、MCCが他教派各団体と連名でイラン戦争反対の書簡を議員に送ったこと。そして、そのことについて以下のように書かれていました。
「とくに厄介なのは聖書の預言内容を現実の世界情勢に当てはめ、イエス・キリストの再臨が近いと解釈し、その再臨を促すためにイスラエルが絡む戦争に期待する思想だ。この解釈に対し、聖書学者ネルソン・クレイビルは、3月9日、フェイスブック上の投稿「ハルマゲドンを望むのを辞めなさい」で、こう反論している。復活後、弟子たちはイエスに「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか、と尋ねた」まもなく政権交代を起こすのか。「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』世の終わりについて推測するこだわりを辞め、壊れた世界への救いの福音を広め始めなさい。悪が最終的に自滅する過程の詳細については神に任せなさい。それまでの間はイエスの教えに従い、イエスを模範として和解のために働きなさい」。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌20番、メッセージ後:新聖歌221番
聖書交読
詩編12篇 1~8節
2026年教会行事
今週の集会はお休みです。
#58-3023