なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 17章1~17節>
信徒:K
開会聖句
目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。
<ヨハネの黙示録 3章2節>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。掲載が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。8/30 AM 0:18
はじめに
17章は12章,15章と続くアブラハム契約の3回目です。はじめの契約内容は、彼に子孫と土地を与える約束でした。彼はその約束を握って、神が示されたカナンに旅立ちました。家畜の群れを追ってさすらう天幕生活者にとって、土地を得て定着することは悲願でした。安全面、経済面で安心が得られるからです。この土地を得る約束は、ヨセフの招きによってエジプトに下った彼の子孫たちが、モーセによってエジプトの奴隷生活から脱出し、荒野生活を経験した後、ヨシュアによって乳と蜜の流れる地、カナンに入ったことで、成就したと考えられています。15章の契約では、それが4百年以上のはるか先のことであるという、新しい情報が告げられていました。この17章は、その15章から13年以上経っています。今日の主題は「3度目の契約」ですが、どんなことが新しく追加されているでしょうか。
Ⅰ.3度目の契約を聞いて、ひれ伏したアブラハム
「さて、アブラムが99歳のとき…。」神さまは「わたしは全能の神である。」と自己紹介をされました。周囲には民族の数だけ、神々がいます。その中で、わたしは「全能の神(エルシャダイ)」だと名乗られた。それは今から繰り返して告げる契約を全て成し遂げることができる神だと言う宣言だと思います。続いて「あなたはわたしの前を歩み…大いに増やす。」と告げられます。これを聞いて、彼は神さまの前にひれ伏しました。それは当然のことだと思われるかもしれませんが、実は彼は15章では、違った態度を取っていたのです。神のことばがアブラハムにのぞんだとき、彼は神さまに食ってかかるように、子がまだ与えられないことに文句を言いました。しかし、ここで素直にひれ伏したのは、女奴隷ハガルによって、すでにイシマエルという自分の子を得ていたからでしょう。彼の内では、子孫の問題は一件落着している。人間の方法で。だからひれ伏すことができたと思うのです。不妊の女性から、多くの国民が生まれるという神の全能を、彼はまだ知ってはいません。しかし、神さまは何も言われず、2つの追加事項を告げられます。
一つは、9~14節の割礼という儀式です。アブラハムだけではなく、彼の代々の子孫も、彼の家で生まれたしもべも、買い取られたしもべも、すべての男子に課せられています。「無割礼の者は自分の民から断ち切られなければならない。」と言われるほど厳しい命令です。これは神さまとの契約を覚えるための、肉体に刻まれるしるしです。簡単に言えば、「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民である」を、忘れないためです。カインのしるし、ノアの虹のしるしを思いだします。割礼のしるしは、バビロン帰還後、国家再建のためにユダヤ教が生まれ、自らを神の民と区別するための(他民族との線引き)ユダヤ民族のしるしの1つになります。律法遵守の厳格化です。他には安息日規定や食物規定などがあるのですが、この2つはモーセの時代(シナイ山での律法授与)に決められたものですから、割礼というのは、とても古い習慣なんですね。
この一番古い割礼の儀式は、ユダヤ教からキリスト教への過渡期、一番問題になったことでした。ユダヤ民族の一宗教からギリシャ世界に爆発的に広がっていく時代、次々と生まれていく教会には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。律法遵守の中で育ったユダヤ人クリスチャンは、救われる(神の民となる)ためには、異邦人も割礼を受けるべきだと考え、異邦人クリスチャンは、救いは「信仰によって」だと教えられていました。パウロは対立する両者の意見に、17章のこのアブラハムの割礼の事例から、彼の考えを述べました。
ローマ書4:11「彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として割礼というしるしを受けたのです。」
割礼というのは、神さまを信じて、神の民となったしるしとして受けたもの。約束を思い起こすための目にみえるしるしに過ぎないので、救いの条件ではないと断言しました。割礼の問題はとても根深いものでしたが、次第に消えていきました。しかし、同質の問題は繰り返し起こります。キリスト教は新しい契約です。この契約を私たちが忘れることがないように、イエスさまは教会に聖餐式を命じられました。私たちはそれを守ることによって、救われるのではありません。他にも、救われたことを忘れないように、色々な教えが教会にあります。礼拝(出席)、祈り、聖書を読むことの勧め。時には窮屈さを覚えることもあるでしょう。でも、私たちの信仰を守るものです。
Ⅱ.サラのことを聞いて、ひれ伏して、笑ったアブラハム
もう一つの追加事項は、アブラムとサライの改名の命令です。アブラムは5節で「もはや多くの国民の父となるから」アブラハムと命じられています。サラは15~16節で「あなたの妻サライは…。わたしは彼女を祝福し、…もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」のでサラと命じられます。このサラの改名の話を聞いたアブラハムは、ひれ伏して笑います。17節「百歳の者に…、九十歳の女に…。」最初「わたしは全能の神である」と聞いて、彼はひれ伏したのですが、その全能のしるしである「サラが子を産む」ことを聞いて、笑ってしまったのです。神さまの今更ながらの冗談に、思わず笑ってしまったのを隠すためにひれ伏したという意地悪な見方もあります。とにかく、彼は「神さま、やっとですね。」と喜こんでいません。そのことばを無視するかのように、「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」と願いました。すでに老人となった自分たちに子が生まれるなどあり得ないという諦めと、跡取りとして成長しているイシュマエルのことが心配だからでしょう。
神さまはアブラハムの2つの思いに答えられます。19節「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。」はっきりとサラが子を産むこと、イサクという名も告げられます。彼が心配するイシュマエルについては、「あなたの言うことは聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、…。」と安心させ、最後に21節「しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の…イサクとの間にである。」約束の子はイサクだとダメ押しです。
23節では、アブラハムがその日のうちに、家のすべての男性に割礼を施したことが記されています。24、25節ではアブラハムとその子イシュマエルが割礼を受けたときの年齢が、26、27節では親子の割礼とそれ以外の全員の割礼の実行が簡潔に述べられています。ここで、イシュマエルが13歳とわかります。もう立派な成人になっているのですね。彼が「サラが子を産む」ことを聞いて、素直に喜べない複雑な心境であったことが察せられます。
このところを読みながら、イエスさまの誕生を思いだしました。イザヤ書には多くのメシア預言がありますが、そんなメシア待望の機運が最高潮に高まっていた時代にイエスさまは生まれました。しかし、ヘロデ王はもちろんのこと、ローマの支配に苦しめられていたユダヤ人さえもイエスさまを喜ばず、この世から追い出してしまいました。彼らの期待していたメシアには思えなかったからです。これは、祈りのたとえで、神さまがやっとその祈りに答えて、求めていたものを届けようとしたとき、受け取り手がいなかった、又は拒否されたという皮肉な話に似ています。長い時間の経過で、祈りの答えを受け取る側の人間が変わってしまうことは、ありうることです。深く失望することを恐れるあまり、「もうこれで十分です」と妥協したり、諦めてしまったり、やっぱり神さまはいないんだと世俗化したり。
終わりに
私たちも待っています。主が再び来られること、そして今度こそ王として、この世界を支配して下さることを。新約聖書にあるクリスチャンたちはその時が来ることを切実な思いで待っていました。待ちくたびれて、違った教えに惑わされたり、信仰を失いそうになる教会もありました。今日の開会聖句は、ヨハネの黙示録3:2「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。…完了したとは見ていない。」使徒ヨハネのことばです。彼はとても長生きしたので、殉教していった他の使徒たちより、宣教がすごい勢いで進む、けれど次々と起こってくる迫害や困難に苦しみ、再臨の約束を待ち疲れる教会を誰よりも多く見ていたのでしょう。黙示録はそんな教会を励ますために書かれました。あれから約2千年が経過し、私たちはまだなお待っています。あのような迫害はありませんが、神さまを否定するか、飾り物のように考える世界に生きています。教会の姿も変化していき、不安もあります。しかし、そんな時代だからこそ、このヨハネのことばのように、互い(の教会)が目を覚まして、励ましあうことが必要なのだと思います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌143番、メッセージ後:新聖歌464番
聖書交読
詩編 29篇 1~11節
2026年教会行事
8月26日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3039