つまずきの石、妨げの岩

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<イザヤ書 28篇1~13節>
牧師:砂山 智

開会聖句

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

<ローマ人への手紙 9章33節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:8/30 AM 0:49
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・「イザヤ」からの三回目です。本書からお話しする際には、背景として、〇〇国と〇〇国とが同盟を結んだとか、こんな戦争があったとか、そういう話を避けて通ることはできないのですが、日々のニュースなどで今の世界で起きていることを見るにつけ、私たち人間やこの世の国の歴史は、いつまでたっても同じことの繰り返しだなぁということを改めて思わされます。そして、昨日は81回目の「終戦記念日」でしたが、いつも思わされることは、そのような戦争で最も悲惨な目に遭うのは、庶民、名もなく、財産もなく、何の権力も持たない人たちだということです。聖書には、特に旧約聖書には、王様がたくさん出てきますが、そのような王たちの物語の陰には、私たちと同じような、無数の、そして、名もなき人たちの物語があったということ。8月になると、いつもそんなことが頭に浮かんできます。

<本論>
1.残りの者
「イザヤ」の28~35章までは、北イスラエル(エフライム)、そして南ユダに下されるさばきについての預言です。さらに言えば、それは王や指導者たちへのさばきの宣告と言えます。まず、1~6節では、北イスラエルに対してのさばきが語られます。それは具体的には、紀元前721年にアッシリア王サルゴン二世によって北イスラエルが滅ぼされたことです。1節の冠とは、その都サマリヤのことを表しています。当時のサマリヤは、肥沃な谷の中央の丘の上にあり、塔のある城壁に囲まれ、周りから見ると冠のように見えたので、そのように呼ばれたのだそうです。そして、その冠ということばは、少し後の5節にも出てきますが、そこでは全く意味が違ってきます。

『その日、万軍の主は、民の残りの者に輝かしい冠、栄えの飾り輪となり、』(イザ28:5)。

この「残りの者(ヘブル語でシェアール)」ということばですが、それは「イザヤ」に何度も出てくる特に重要なことばです。その意味するところは、神の怒り、さばきは、神により頼まない者にとっては破滅であり、死を意味しますが、神により頼む者、つまり「残りの者」にとっては、悔い改めの機会であり、救いの時となるということです。あのパウロも、新約の「ローマ」9章27節で、これらイザヤの預言を引用して、イスラエルだから救われるのではない。救われるのは、イスラエルの中でも「残りの者」だと述べています。それはもちろん、イエス様をメシアとして信じ受け入れた人のことですが、そこには民族や男女による違い。また貧富や社会的な身分による差別はいっさいありません。それは何よりも、神のひとり子でありメシアであるイエス様が、私たちと同じ人間の肉体を取り、この世界に来てくださったということ。そして、あの惨めな十字架の死からよみがえって、救いの道を完成してくださったということが示していることです。

2.祭司からの嘲り

そして、今朝の28章の後半、7節以降では、エルサレムの住民とユダの指導者たちへのさばきが語られます。彼らは、1~4節に記されていたサマリヤの破滅を目の当たりにしたにも関わらず、悔い改めて神に立ち返ろうとはしませんでした。祭司も預言者も、「レビ」10章9節で禁じられていた強い酒を飲み、酔っぱらって、浮かれていたのです。9~10節のことばは「」でくくられていますが、そんな祭司や預言者たちからイザヤへの嘲りのことばだと考えることができます。彼らは、イザヤのメッセージが幼稚すぎると馬鹿にし、10節にある「はやし歌」や「語呂合わせ」のようなことばでイザヤをからかったのです。ちなみに、前の訳では日本語で「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」と訳されていましたが、今回の訳(2017)から原語のヘブル語のままで脚注に日本語の説明が加えられました。それは恐らく、このことばの響きが、「はやし歌」や「語呂合わせ」のようであることを、よりストレートに表すためではないかと思います。

3.イザヤの応答

そして、その後の11節の、

『まことに主は、もつれた舌、異国のことばでこの民に語られる』

とは、ユダの民が、神からのことばであるイザヤの預言を理解できなかったということを強調した表現です。次の12節に、

『主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった』

とある通りです。そして、13節。

『主は彼らに告げられる。「ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウあっちにゼエル、こっちにゼエル。」これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられるためである』(イザ28:13)。

イザヤは、祭司や預言者たちから投げかけられた嘲りに対して、オウム返しのように同じことばをもって返答しています。そのことばには彼らへの皮肉も含まれていたと思いますが、彼ら、祭司や預言者たちこそ、律法の本質をわきまえず、枝葉末節と言うか、どうでもよいことにこだわり続けることで、結果的に、ユダの人々を真の神から遠ざけ、滅びへと導く張本人たちだと糾弾しているのです。
それは、ある方が書いておられたのですが、彼らが、荒野での貧しい不安定な生活からカナンに定住し、家を建て、ぶどうを作るような豊かで安定した生活を送れるようになったことが一つの原因であったと思われます、そんな豊かさの中で、ぶどう酒でよろめき、強い酒でふらつくような生活をするようになり、真の神への信仰をなおざりにするようになってしまった、と。私たちは誰しも、少しでも恵まれた生活を、と望むわけですが、イエス様は、

「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタ6:24)

と言われました。それは私たちが、どんな時にも決して忘れてはならないことでしょう。

<結論>

今朝の開会聖句は、新約の「ローマ」にあるパウロのことばです。

『「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです』(ローマ9:33)。

これは、今朝の「イザヤ」28章16節のみことばから引用されたものです。この石や岩とは、もちろんイエス様のことだと私たちは信じていますが、それは『つまずきの石、妨げの岩』となった。誰にとってでしょうか?それは、同じ「イザヤ」の8章14節を見れば分かりますが、ユダヤ人にとってということです。パウロは、自分の同胞のユダヤ人たちが、イエス様を信じないことを悲しんで、そのように引用したのです。確かに、イエス様は、ユダヤ人にとって、つまずきの石、妨げの岩となられました。しかし、この方に信頼する者、「残りの者」は失望させられることがない。「イザヤ」では、『慌てふためくことがない』とされていました。何かあるとすぐに慌てふためいてしまうお互いですが、イエス様こそ私の希望と信じて、歩んでゆきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF94KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌195番、メッセージ後:新聖歌367番

聖書交読

詩編28篇 1~9節

2026年教会行事


今週の集会はお休みです。

#58-3038

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