永遠の契約としるし

メッセージ

<創世記 17章1~14節>
牧師:徳本 篤 師

開会聖句

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。

<創世記 17章7節>

メッセージ内容

序文)
今日の聖書個所である創世記17章を、パウロの目線から読んでみたいと思います。聖書を誤りなき神のことばとして公言するだけではなく、そのことばの意味を知って、その通りに生きていくことの素晴らしさを知っていただきたいと願っています。

本論)
創世記17章では、アブラハムとイシュマエルを含めて全家族の男子が割礼を受けた(17:24~27)こと。神の契約は、イサクだけに受け継がれたことが記録されています。(17:21)

アブラハムの第一の契約は、

「あなたは多くの国民の父となる。」(創世記17:4)

と記録されています。
創世記25:2には、さらにもうひとりの妻ケトラから、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハが生まれました。アブラハムには、イシュマエルとイサクの他にも六人の息子がいたことになります。彼らから多くの民族が出てくることを考えると、アブラハムは文字通り「多くの国民の父」になりました。さらに、福音が全世界に拡大するとともに、アブラハムはすべての人々の信仰の父となりました。

第二の契約は、

「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」(17:7、8)
「わたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」(17:21)

と記録されています。

ここで「後の子孫」ということばが、単数形であらわされていることに多くの人が注目しています。これは創世記12章7節、13章15節、15章5節などでも繰り返されています。一般的に「子孫」といえば血縁関係のあるひとつの集団をあらわすものですが、パウロはこれが単数形であることを指摘して、「それはキリストのこと」だと説明しています。

パウロはそのことについて次のように書いています。

「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」(ガラテヤ人への手紙 3:16)

福音書の著者であるマタイも、同じように

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(マタイの福音書 1:1)

と記録して、その「後の子孫」とはキリストであると指摘しています。

「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」という神との契約は、後の子孫であるキリストによって人々に実現されることになりました。

適用)
ところで、ユダヤ主義の人々は割礼を神との契約を保証するしるしだと考えて、異邦人のクリスチャンにも割礼を受けることを強要しました。今日の聖書個所から割礼を受けたのはイサクだけではなく、イシュマエルやその他の奴隷たちも受けている事実に注目すると、割礼だけを救いの根拠とするのは矛盾が生じます。

そこでパウロはこう宣言します。

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ人への手紙 6:15~16)

では、割礼は無意味なものだったのでしょうか。神は何のためにアブラハムとその全家族に割礼を受けることを命じられたのでしょうか。それは17章1節に語られているように、割礼を身に受けた者は、それを神との契約の記念として、生涯にわたって、全き心で神の前に歩む者であることを自覚させられるものでした。

だから。パウロは言います。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ人への手紙 2:28、29)

同じように、旧約時代の預言者エレミヤもそのことを指摘しています。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」(エレミヤ書 4:4)

決断と応答)
私たちは割礼を求められていませんが、私たちにも永遠の契約のしるしがあります。キリストが十字架で流された血と身代わりの死を記念するパンと杯のことです。

「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」(コリント人への手紙第一 1:24~28)

割礼の目的がそうであったように、主の聖餐におけるパンと杯はキリストが十字架で血を流された記憶を思い起こすためのものです。私たちがそれを頂くたびに、その出来事を神と自分との間で取り交わされる新しい契約の記憶として思い起こし、その都度、新たに自分の心で確認し、契約を現実のものとしなければなりません。神は自分に対する心の割礼として、それをしっかり身に覚えることを願っておられます。

メッセージ内容のダウンロード(PDF123KB)

新聖歌

開会祈祷後:137番、メッセージ前:235番、メッセージ後:358番

聖書交読

詩篇 100篇1~5節

お知らせ

★本日の礼拝後に1月度の聖餐式を行います。本日は昼食の用意があります。
★S.Y姉から献金が届きました。
★11日(水)10時30分から「おしゃべりティータイム」を行います。
★千里山キッズ園長中谷敬子様から新年の挨拶と御菓子の贈答がありました。

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