後ろの橋を焼き捨てよ

メッセージ

<創世記 19章1~29節>
牧師:徳本 篤 師

開会聖句

いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。

<創世記 19章17節>

メッセージ内容

序文)
「冗談」ということばの語源には二通りの説があると言われています。ひとつは「冗談」の「冗」の漢字が無駄という意味であることから、単なる「無駄話」をあらわすという説。もうひとつは、笑いながら話すという意味の「笑い話(笑談しょうだん)」が転じて「冗談」になったとする説です。
ところが、これを英語に訳すとa jokeに変わります。それは、「気の利いた」とか、「からかう」とかいう話をあらわしています。日本語よりも英語の方が冗談がキツイなと感じました。今日の聖書の中でも「冗談のように思われた。」という個所が出てきます。原語のヘブル語ではツアカークと書かれていますが、「軽蔑した笑い」、「あざ笑う」という意味です。これは英語よりも冗談がキツイと思いました。その時のロトはどんな気持ちだったでしょうか。

本文1)
創世記19章はイスラエルの死海の周辺で繁栄していた町、ソドムとゴモラが神のさばきの火によって滅ぼされるという記録があります。18章ではアブラハムがその地に住んでいる甥のロト家族を何とか救おうと、必死になって神に願いました。神はそれを約束されました。
さて、神の御使いはロトの家を訪れて、早急にこの町から逃れ出るように勧めます。ロトはそれを聞き入れて自分の身内にその話をします。妻とふたりの娘たち、それに娘たちの許婚である婿たちにそのことを真剣になって伝えました。しかし、14節に

「婿たちには、それは冗談のように思われた」

と書かれています。

洞察)
婿たちがロトの話を聞いたとき「冗談のように思った」のには理由があります。 神も聖書も知らないこの世の人々の考えや常識を土台として考えるなら、目に見えない神がこの世の人々の罪をひどく怒られて、天からさばきの火が降されるという話は、現実的でなく、確認できるような根拠もなく、単なるいましめとしての空想話のように思われたからではないでしょうか。多くの人々が婿たちの反応に同意されるのではないでしょうか。常識ある大人が、そんな話を聞いてまともに信じるということがいかにも馬鹿らしく、変な宗教に洗脳された者たちのように思ったのではないでしょうか。それを熱心に語るロトの姿はとても正常なとわ思われず、そのような狂信的な話にはついていけないと思ったことが、「ツアカーク:軽蔑した笑い、あざ笑う」態度にあらわれたのだと思います。

適用1)  キリストのことば ルカ17:26~33
イエス・キリストは人々に「人の子は苦しみを受けたのちによみがえること。父のみもとに戻られ、のちの日に再びこの地上に来られること。」を約束されました。その話を真剣に聞かない人々に対する警告として、創世記19章のソドムとゴモラで起きたことを語られました。 ノアの洪水の時も、ソドムとゴモラのさばきの時も、その当時の人々はそれを冗談だと思って無視したこと。同じようにキリストが再び来られるという話を聞いても、その時の人々と同じ反応を示すことだろう。だが、その結果も、同じであることを心して聞くべきである。

適用2) 使徒ペテロのことば 第2ペテロ2:7~8
ペテロは語ります。ソドムとゴモラの町が滅ぼされた時に、主は義人ロトを救い出されました。不法な人々の間に住んでいても、日々その正しい心を痛めていたからです。と。

応答と決断)
この世の人々の罪深い行いと不法な行為にならされて、いつしか心を痛めることもなく、この世の人々の生き方に調子を合わせるようなことになっていないだろうか。 今日、私たちも、主イエス様に私たちの心を探っていただいて、破損して傷んだ部分、傷つき汚れた部分がないか調べていただきましょう。 初めの愛から離れるようなことがないように互いに励まし合いましょう。

本文2)
ロトは娘婿たちから笑い者扱いされたことに自信を失い、町から出ていくことをためらい始めました。こうなるとせっかくの決心も力を失います。ぐずぐずはしておれないにもかかわらず、彼は立ち上がれませんでした。

16節「すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」

と書かれています。

洞察)
人の救いには本人の自由意思による決断と同意が重要です。しかし、今日のロトの時のように、実際にはそれだけではなく、あわれんでくださる主の恵みによることを決して忘れてはいけません。 ロトも頭では主のさばきのことを信じていましたが、いざという時になって、ためらいが生じ、その決断のとおりに行動できないことがあるのです。もし、そのままの状態が続いていたら、もし、主の御手で彼の手をつかんでくださらなかったら、彼が救い出されることはなかったと思われます。

適用) 使徒パウロのことば 1コリント12:3
使徒パウロは自分のあかしとして「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』ということはできません。」と語りました。この聖霊に「よるのでなければ」ギリシヤ語エイミーの意味は、聖霊以外には・・ない。聖霊を除いて・・ない。聖霊でなければ・・・ない。ことをあらわしています。 従って、私たちの信仰の最も中心部分であるキリストを主と認めて告白することすら、聖霊の働き以外にはあり得ないほど、主はあわれみ深く、あなたの信仰と密接な協力関係があることを明らかにしています。

応答と決断)
主があなたに親しく語りかけておられるとき、招きのことばを聞いたときは、その時が自分にとって最後の機会かもしれないと、いつも考えるようにしましょう。 冗談としてではなく、聖霊の助けを求め、真剣に聞くべきことを思い起こしてください。 その生き方が私たちの実際的で、実践的な信仰の姿でありますように。

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新聖歌

開会祈祷後:20番、メッセージ前:311番、メッセージ後:400番

聖書交読

詩篇 116篇1~19節

お知らせ

★S.T姉は23日に右足首骨折の手術を無事終了され、あと2週間ほど入院の予定です。回復と平安のために祈りましょう。
★2017年度年次総会を2月19日(日)礼拝後に行います。
★神学校入学願書締切日が2月6日、入試日は2月21日になっています。新しい献身者が起こされるように祈りましょう。

2017年度前半の主な教会行事
2月19日(日)  年次総会
4月16日(日)  イースター礼拝
4月23日(日)  合同記念会
4月30日(日)  北部地区講壇交換(藤野師来会)

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