父の家に帰る物語

メッセージ

<ルカの福音書 15章20~32節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

<マタイの福音書 5章45節>

メッセージ内容


<序論>  
・今日のテキストは、「放蕩息子のたとえ」の後半です。

<本論>
1、弟の帰郷。その時、兄は?
このたとえに出てくる弟息子には大きな懸念がありました。それは、きっと父は、好き勝手なことをしてボロボロになって帰って来た自分のことを息子とは呼んでくれないだろう、という懸念です。21節にある『もう、息子と呼ばれる資格はありません』という彼のことばを見れば、それが分かります。確かに、この世の常識で考えれば、その通りだと思います。この世においては、愛される資格・価値のある者が愛される。そういうことです。ですから、多くの人は、この愛される資格を求めて、頑張ります。つい先日も、改めてそのようなことを思わされる事件がありました。皆さんも、よくご存じのことと思いますが、「日大アメリカンフットボール部」の事件です。「勝利至上主義」という価値観は、監督からの「相手のQBを潰して(ケガをさせて)、この俺に、自分には愛される資格・価値があるということを証明して見せろ!」という声となって、選手を追い詰めました。そして、そのような声は、スポーツの世界に限らず、ビジネスの世界はもちろん、時には、学校、家庭においても、人々を追い詰めているのではないでしょうか。

そして、もう一人、このたとえには、気になる息子が出てきます。それは、兄息子です。兄息子は、自分勝手なことをして帰ってきた弟を、父親が何の咎めだてもせずに大喜びで迎え入れ、祝宴まで始めたことを知り、怒りを爆発させます。この兄息子の姿は、直接的には2節に登場するパリサイ人や律法学者たちを表していると思います。

兄息子は畑にいたので、弟が帰って来たことを知りませんでした。だから、しもべに、これはいったい何事かと尋ねるのですが、この問いかけに、「俺はのけ者にされた」という思いが見え隠れしているように思えます。そして、兄息子は父親を次のように非難します。

『『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』』(ルカ15:29~30)。

この兄息子のことばには、様々な感情が渦を巻いています。それは、「自己義認」「自己憐憫」「嫉妬」といったものです。兄は、自分の弟のことを、わざわざ『遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子』と呼んでいます。「あいつはあなたの息子かもしれないが、俺には関係のない人間だ!あんなろくでもない奴、俺は弟として認めない!」と言っているように思えます。このような、いわゆる不平・不満というものは、私たちの心を強力に支配します。他の人を怨んだり、時には自分自身を責める思いにもなります。独善や自己嫌悪というものが入り混じって、ますます真黒な思いが心の中に拡がってゆきます。そして、そのような思いに心が支配されてしまうと、それがたとえ自分の父や弟であっても、素直に喜びを分かち合うということができなくなってしまうのです。それが、この時の兄の姿だと思わされます。

<結論> 
考えてみれば、この兄息子は、いつも父の側近くにいたのです。にもかかわらず、彼は父の心が全く分かっていませんでした。不思議に思えます。弟息子なら当然かもしれません。しかし、兄は、いつも父と一緒にいたのです。水前寺清子の「365歩のマーチ」の三番に、「しあわせの 隣にいても わからない日も あるんだね」とありますが、正に、この時の兄の姿に、ぴったりではないでしょうか。

そして、このたとえの最後は、次のような父のことばで締めくくられています。

『『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」』(同15:31,32)。

この父親の姿こそ、父なる神さまの姿です。
神さまの愛は、決して、相手に対して強制したり、無理強いをしたりはしません。拒否する自由をも与える愛です。私たちの人間の愛は、相手の態度次第で変わってしまいます。しかし、神さまの愛は違います。相手の態度に依存することなく、どんな時でも「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださり、あなたが帰って来るのを待っておられます。神さまは、自分の子どもたちが自由であり、自由に愛する者となることを願っておられるのです。

今日の主題聖句は、イエスさまの「山上の垂訓」の中にある一節です。私は、このみことばが、長い間ピンときませんでした。神さまは博愛主義者のような方だ、ということをおっしゃりたかったのかなと考えていたのですが、そうではないということに気づかされました。「放蕩息子のたとえ」を通して、神さまは、ご自分の子どもたちの態度には関係なく、いつも豊かな恵みを注いでくださる方であり、私たちが、ご自分の家に帰って来るのを待っておられるのかなぁ、と感じるようになりました。今日も、父なる神は、あなたの帰りを待ち続けておられるのです。

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新聖歌

開会祈祷後:209番、メッセージ後:349番

特別讃美

MAKI & LILY(坂本真紀・喜多ゆり)
♪メッセージ前
「Mourning into dancing」
「愛をうけとろう」
「空の鳥よ野の花よ」
「Still」
「主の祈り」
♪メッセージ後
「まよえるこひつじ」

2018年教会行事

6月20日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#50-2611

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