目撃者から証人へ

メッセージ

<ヨハネの福音書 20章1~10節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

<使徒の働き 2章32節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:4/10 PM 1:39 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・イースター、おめでとうございます。今朝の場面は、イエス様復活の第一報を伝えようとするマグダラのマリアと、その知らせを聞いたペテロたちの姿を描いています。「百聞は一見に如かず」ということわざの通り、この時の彼らの体験、復活の事実を自分のこの目で見たという体験は、間違いなく、その後の彼らの歩みに大きなインパクトを与え、福音宣教のための原動力となったことでしょう。

<本論>
1、聖書を、まだ理解していなかった

今朝のマグダラのマリアも、ペテロたちも、イエス様の復活の目撃者とされるという栄誉に与りました。それは、彼らの信仰が特別に素晴らしかったから、ということもあったかもしれませんが、それよりも、神からの一方的な恵みであったと思います。ただ、ヨハネは気になることばを書き残しています。それは、9節。

『彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった』(ヨハネ20:9)。

つまり、8節の最後にあった、『そして見て、信じた』ということばは、ペテロともう一人の弟子(恐らくヨハネ)の二人が、聖書にある復活の約束を理解し、信じた、ということではなく、マグダラのマリアが知らせてくれたこと、墓にイエス様のご遺体がなかったということが本当だということを、見て、信じたということなんですね。彼らが、イエス様が復活されたことの本当の意味を理解し、そのことをはっきりと話せるようになったのは、それから少し後のことだったのです。

2、目撃者にしかすぎないと感じる時

今朝の説教題は「目撃者から証人へ」とさせていただきましたが、目撃者と証人とは違います。前者は、文字通り、何かの出来事を目撃した人という意味ですが、後者には、もっと踏み込んだ意味があるように思えます。今、テレビなどでウクライナでの戦争の映像が盛んに流されていますが、歴史上、そのような映像が世界中に流されるようになった最初の戦争は「ベトナム戦争」であったと言われています。ただ、その頃の映像の発信元は、そのほとんどがプロの戦場カメラマンやジャーナリストたちでした。それが今や、一般の普通の人たちがスマホなどで映像を撮って、それがSNSなどを通じて瞬時に世界中に拡散されるという、そんな時代になりました。私たちは遠く離れた日本にいても、リアルタイムでそんな映像を見ることができます。もちろん、それらの中には、プロパガンダ(政治宣伝)を目的とした偽情報もあるでしょう。ですから注意が必要なんですが、やはり、そこで今、どんなことが行われているかということを生の映像で見るということは、本当に大きな意味のあることだと思わされます。ただ、私は、そんな映像を見ながら、時々、自分は単なる目撃者にしかすぎないんじゃないか、と感じるんです。それは、確かに悲惨な戦争の映像を見て、かわいそうだなぁとか、その後で強い憤りを感じたりするのですが、心のどこかに、自分とは遠く離れた世界の話というか、世界には同じように苦しんでいる人たちが他にもごまんといるよね、とか。或は、自分のすぐ近くでも、戦争とまではいかなくても、同じ人間同士で傷つけ合い憎しみ合うというような現実があって、ウクライナのためにと言われてもなぁ…と。「牧師のくせに、何言ってるんだ」と思われたかもしれませんが、正直に言って、そのような思いが心に沸き上がってくる時もあるんです。

<結論>

最近、テレビや映画で見なくなったものの一つに「時代劇」というのがあると思うんですが、テレビの「時代劇」には必ずと言っていいほど、名台詞と言うか、決め台詞がありました。例えば、「水戸黄門」でしたら、「この紋所が目に入らぬか!」とか。「木枯し紋次郎」の主人公の名台詞は、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」でしたが、私は、目撃者と証人との違いは、自分が目撃した(体験した)出来事を、自分とかかわりのあることだと受け止めて話すかどうかの違いではないか、と思うんです。それが、所謂、他人事ではなくて、自分にとって深くかかわりのあることだと受け止めて話すのと、そうではないのとでは、大きく違いますよね。今朝のマグダラのマリアやペテロたちも、最初は、単にイエス様はよみがえられた、ということだけだったかもしれません。それはもちろん、驚くべき出来事ではありましたが、「そう言えば、生前、主はそのように言っておられたなぁ」と。しかし、ある時を境にして、彼らははっきりと理解したんです。その出来事が、自分たちはもちろん、すべての人の未来に深くかかわりのある出来事なんだということを。その、ある時というのは、「使徒の働き」2章に書かれてあるペンテコステの出来事です。イエス様が約束してくださった助け主なる聖霊が下った時、彼らははっきりと聖書の約束を理解し、力を得て、主が復活された本当の意味を語りだしたのです。そして、その時から、彼らは単なる復活の目撃者ではなくなりました。復活の証人へと変えられたのです。私たちは、どうでしょうか?イエス様の復活を2000年前の聖書の中の出来事として、或は、キリスト教の教理として理解し、信じているだけでしょうか?それとも…。

『このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です』(使徒2:32)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF76KB)

特別讃美

ムジカンパーニュ
・神の小羊
・Victory in Jesus
・小さな祈り
・一羽のすずめ
・球根の中には

新聖歌

メッセージ後:257番(ムジカ伴奏・会衆讃美)
・パラダイス

2022年教会行事

4月13日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2811

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